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日中韓合作の舞台『祝/言』

日中韓合作の舞台『祝/言』を観た。
国際交流基金と青森県立美術館の制作、東日本大震災に対してアーチストが芸術を通して向き合うことを直接の目的とした作品だという。死者たちの鎮魂のための芸能舞台、という性格も持つ。音楽と舞と詞が被災者のために捧げられるのだ。東北の被災地の演劇人が参加しているほか、中国、韓国のパフォーミング・アーチストたちも、まったく等量の重さでそれぞれの役割を受け持つ。俳優たちの多くは、二カ国語の台詞を喋る。作・演出は弘前劇場の長谷川孝治。

このような枠組みで制作された舞台であるから、ある部分は公的催事と見るべきなのだろう。規模はちがうけれども、ちょうどオリンピックの開会式のような。つまりそこでは、相互理解と友好、連帯が、ストレートに、高らかに語られる。
じっさい、このお芝居でも、ひとりの登場人物がじつに直接的な言葉で口にするのだ。
「わたしたちは日本人や中国人や韓国人である前に、ひとなのだ」
「言葉は通じなくても、ひとには魂がある。魂は、伝わる」

死者の鎮魂のための奉納舞台としては、メッセージは見事に実現している。ラスト、韓国の音楽ユニット、アンサンブル・シナウィの演奏に、舞台上も観客も盛り上がる。ある種のユートピアを、観客は舞台上に観たと確信できる。それがいずれは空間的にも時間的にも拡大してゆくだろうと、信じることができる。

しかし、この作品はもうひとつ、日中韓の男女の関係の悲劇でもある。公的催事のメッセージとして語られた理想が、お芝居では裏切られる。むしろ「ひと同士の」相互理解や結びつきの困難性のほうをこそ、観客は意識させられるのだ。

その日、三月十一日の午後、東北のとあるホテルで、祝言がとり行われようとしている。新郎は日本人。大学の教員だ。新婦は韓国人。新郎の大学の学生である。歳の差のあるカップル。結婚式には、新郎と同じ研究室で働く中国人女性教員(役名はモンヤ、上海在住の女優・李丹が演じる)も招待されている。彼女の年齢は新郎に近いか同年代。新婦は彼女の直接の教え子である。

祝言当日までに、観客はかつて新郎とモンヤとのあいだに、同僚意識を超えた関係があったことを知らされている(どのような深さでかは、はっきりとは語られない。でも、ふたりとも大人なのだ)。しかし新郎は若い韓国人女性を配偶者に選び、モンヤには結婚式立ち会い人を頼む。モンヤは自分の新郎への想いを抑え、なんとかその役割を果たそうとする。

ホテルに新郎新婦両家の面々が集まり、友人たちもやってくる。ほどなく民族を超えてふたつのファミリーがつながり、その周囲のひとびともまた新しい関係を築いてゆくだろうという予感。望ましき絆が生まれることへの期待に、出席者たちは高揚する。ひとりモンヤだけは、その場に満ちた幸福感に耐えられず、忘れ物をしたとして消える。

ジャム・セッションが始まる。津軽三味線とシナウィとの演奏に会場は盛り上がる。ここで前述の台詞。新郎の父親の感慨だ。「言葉が通じなくても、魂は、伝わる」。直後に、大地震と津波がホテルを襲う。結婚式の関係者のほとんどが死ぬ。

民族を超えたふたつの家族の結合は、成就しなかった。新郎の父親のナイーブな夢は打ち砕かれた。新郎はモンヤの想いをついに知ることもなく、彼女がその祝言の場から消えたことさえ気づかないままに死んだ。「魂」は伝わらなかったのだ。

震災さえなければ、とは観客は感じない。新郎は、そしてその祝言は、ひとりの女性をすでに打ち砕いていた。モンヤの想いを知る観客は、そのあとにきた天災を、犠牲者の数で比較してより不条理だと言うことはできない。

ラスト、登場人物たちのほとんどは白い衣装で登場する。白い衣装は、彼ら彼女らが死者として認識され、ある意味では罪を浄化された存在となったことの象徴である。しかし、モンヤだけは黒い服。彼女は冒頭から(震災から二年八カ月後、という設定だ)ずっと喪服を想わせる服のままだった。

生き残ったことの呵責が彼女をさいなんでいる。また、「想いがついに伝わらなかったこと」を、まだ受け入れることができていない。

いや、震災と津波の以前に、彼女はすでにうちのめされ、絶望していた。愛しているひとのそばからみずからを消すほどに。被災地で死者とも対話する彼女は、もしかすると認識されなかった死者、魂を鎮められていない死者であるのかもしれない。カーテンコールとも言えるそのラストでも、彼女だけは、晴れやかな笑みを見せることなく、黒い服でそこに立つのだ……。

三カ国合作の妙味が生きた素晴らしい舞台だった。

ひとつ、袴姿の男性が舞う日本舞踊だけは、どうにも違和感があった。ほかのパフォーミング・アーツが(音楽も、ダンスも、演技も)、他のパフォーマーと連携し、あるいは触発しあって観客を惹きつけていたのに、このひとの踊りは彼ひとりで完結していたからだろうか。あの舞踊は、この舞台の表のメッセージからも遠かった。
by sasakijo | 2014-01-14 17:18 | 日記