ここは佐々木譲が開設している備忘録ブログです。日々の暮らしと、本、映画について書いています。


by sasakijo

カテゴリ:本の話題( 8 )

『カメラは詩的な遊びなのだ』(田中長徳、アスキー新書)

田中長徳氏はライカ・エバンジェリストとして知られるひとだ。ライカ熱のないわたしも、氏のライカ愛についての本は少し読んできた。信仰を持つには至らなかったが。

この新書の帯の写真には、ライカⅠの隣りに、オリンパスE-P2。氏は本書冒頭でこのオリンパスE-P2を絶賛しているし、中の写真もこのカメラで撮ったものだとある。E-Pシリーズ・ユーザーとして、この新書は読まずにはいられない。収められている写真はすべてヘルシンキで撮られたもの。

テキストは講演か写真教室での講義を起こしたものだろうか。いつもの長徳節なのだけど、アマチュアへの実用的な助言が少し。

たとえばひとつ。RAWモードは必要なし。JPEGで十分。B全判まで拡大プリントできる。

プロでもそうなんだ。

もうひとつ。写真はプリントするな。フォトフレームでスライドショーにして見るのがいい。

これはプロの作品についても同じだ。いまなら写真は、重い豪華版写真集や混雑する写真展会場で見るよりも、PCで見るほうがいい。
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by sasakijo | 2011-01-17 20:34 | 本の話題
『ポピュリズムへの反撃 現代民主主義復活の条件』(山口二郎、角川書店、新書)

タイトルとおり、「小泉型政治」を批判し、民主主義復活の可能性を探ろうとする論考。2008年から2010年まで、神保町フォーラムでおこなわれた講演をまとめたものだという。刊行は昨年10月。

著者は昨年末、たしか週刊朝日かAERA誌上で、自分が民主党政権実現を訴え続けてきたことについて「リフォーム詐欺に加担した気分」と述懐していたと思う。民主党の理論的支柱のひとりである著者が「詐欺加担」の気分なのだ。二年前の選挙で民主党に一票を投じた市民の多くが、詐欺被害に遭った気分であっても、とくべつ被害妄想というわけではないだろう。

この幻滅が一気にファシズムに向かう可能性もなくはないわけで、その意味でも民主党の罪は大きい。財政破綻の夕張市が明日の日本なら、政治破綻の阿久根市も明日の日本にならないという保証はないのだ。

それでも著者は、幻滅までも含めて市民の政治的成熟の一過程と見る。鳩山内閣で幻滅というレッスンを早めに一度受けたことは、悪いことではなかったと。本書はポピュリズムの分析であると同時に、民主党の政権運営の稚拙さを批判する論考でもあるので、読後は少しシニシズムからは解放された気分になる。

著者は、小泉純一郎が駆使したポピュリズムを批判しつつ、ポピュリズムが民主主義にエネルギーを与える肯定的な側面があることも認める。だから著者は、敵味方の線を引き直すことで、ポピュリズム対してはポピュリズムで対抗しよう、と提言する。たぶんそれは、いま考え得るもっとも現実的な、政治的破綻回避の道だろう。

小沢一郎への批判的視点にも共感できる(この点は、神保町フォーラムのほかのメンバーとは意見を異にするところらしい)。

また北海道の住人として、著者は鈴木宗男についての評価が、北海道以外の土地ではちがっていることの違和感を書く。でも、北海道外での宗男人気は、かなりの部分、佐藤優効果である。鈴木宗男が土着型利益配分政治の典型という著者の評価には、誤りはないのだ。その評価が、小泉の敵創出のステレオタイプ化に利用されたという面があったとしても。

社民党やみんなの党を斬って捨てる部分も痛快。と、ひさしぶりに本のレビューなど。
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by sasakijo | 2011-01-10 20:47 | 本の話題

『音楽の聴き方』を読む

『音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉』(岡田暁生、中公新書、2009年)

巷には、「クラシック音楽は難しくありません」という類のコンセプトの入門書が山とあるが、本書はその逆。音楽とは文化と歴史の産物なのだ、ということ、そして音楽の理解のためにはその背景の歴史と文化を知り、さらにその音楽を構成する語彙と文法とを知ったほうがよいと語る本。好著だ。

本書はだから、音楽的感動の言語化の拒絶、に対する批判でもある。小林秀雄がばっさり切り捨てられているのが痛快だ。著者はおそらく、小林秀雄の音楽鑑賞の能力をまったく認めていない。

本書ラストには、音楽をより深く理解するための「架空の図書館」の文献目録がある。ここには小林秀雄は出てこない(三島由紀夫は出てくる。村上春樹は絶賛されている)。

やや、というか、かなり専門的な論考でもある。素人にはまったく理解不能な部分もある。なので、「おわりに」の部分にある「聴き上手へのマニュアル」がありがたい。本書の主張が、素人向けにきわめて実際的な助言に置き換えられ、整理されている。

著者はあとがきでこう書く。
「だが同時に『音楽を聴いて理解する回路』は、あくまでも未知の巨大な体験に出会うまでの足場、最終的には捨てられるべきものにすぎない」

さらに著者は「おわりに」で、自分の「音楽を聴く場」についての究極の理想の体験を記している。トスカーナのシエナの街で偶然行き合ったアルフレード・クラウスのリサイタルがそれだという。

「思うに最も幸福な瞬間にあっては、音楽それ自体の素晴らしさはもはや意識に上がってこない。音楽はひとつの場の中に消滅する。そんなとき私たちは、音楽それ自体を聴いているのではなく、音楽の中に場の鼓動を聴いているのだ。まさにそういう希有な体験と出会うためにこそ、音楽を聴く意味はある」

共感する。自分のいくつかの体験を想い起こす。
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by sasakijo | 2010-02-15 19:06 | 本の話題
『大聖堂 果てしなき世界』(ケン・フォレット、ソフトバンク文庫)を読む。年末年始で、文庫上中下巻、約ニ千ページ。

『大聖堂』(The Pillars of the Earth)の続編ということになっているけれど、共通するのは舞台がキングズブリッジというイングランドの架空の町、ということだけ。時代は正編からおよそ二世紀あとの千三百年代。主人公たちは、いちおう正編のトム・ビルダー、ジャック・ビルダーの末裔たちという設定だけれど、その血筋自体は直接は物語に関わる要素ではない。そもそも主人公たちは零落した一族として登場してくるのだ。なのでこれは完全に独立した物語。

正編はまるで巨大なタペストリーのような物語だった。これに対して続編『大聖堂 果てしなき世界』(World without End)は、長大な絵巻物という印象がある。輪郭があり、下地の文様も明快な前者に対して、タイトルどおり巻を開いても開いても終わりが見えてこないような。主人公たちを何度も危機が襲い、予測もできない方法でその苦難から逃れると、また新たな危機。それが「果てしなく」と感じられるほどに繰り返される。

しかし、そのエピソードひとつひとつが面白く、時間を忘れて読みふけってしまう。十四世紀のヨーロッパに引きずりこまれる。百年戦争、ペスト禍、そしてじんわりと進行する市場経済。教会の堕落と、権威の喪失。

きれいごとの歴史小説でないのがよい。暴力、犯罪、戦争などの描写のリアルさはもちろん、性風俗、魔女裁判、公開処刑、修道士、修道女の同性愛、ペストがもたらした社会崩壊まで、ケン・フォレットはイギリスの中世社会をけっして美化して描かない。そこは性も排泄もない中世テーマパークのような世界ではない。日本の歴史小説を読み慣れた読者はたぶん、随所で嫌悪を催すことだろう。

しかし、それを含めて楽しんだ。ストーリー・テリングという技術についても、あらためて考えてみたくなる小説。

ケン・フォレットがもしこの次書くとすれば、それは産業革命を真正面から素材にする物語ではないだろうか。
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by sasakijo | 2010-01-07 21:54 | 本の話題

『朗読者』を読む

『朗読者』(ベルンハルト・シュリンク、新潮社、新潮クレスト・ブックス)
読後、呆然とする。15歳の少年と36歳の女性との関係の顛末。途中まったく予想がつかなかった展開で、この読後感をどう表現したものやら。予想外の場所まで連れてゆかれて、ひとり置き去りにされたような気分と言えば近いか。

拍子抜けというわけでもない。苦いのともちがう。けっして悪くはないのだけれど、主人公たちに感情移入して、その人生に深く感動したわけでもない。

作者は言葉を惜しんでいないか、という疑問が残ったまま終わってしまった物語、という印象もある。

主人公のひとりハンナはともかく、出てくる人物がどれもかなり意識的に不快な人物に描かれている。主人公の父親も、刑務所長も、ハンナの「罪」を告発したユダヤ人女性も。

いちばんの問題は主人公の不誠実さなのだけれど、これ自体が主題である可能性もある(確信持ってそうだとは言えない)。作者自身はその部分をさほど問題にしてはいないようにも読める。

主人公の認識として、自分の罪はその関係を秘密にしたことだ、という意味の叙述はある。ただ、彼の自罰意識がどことなくナルシズムっぽくも受け取れるのだ。

再読すれば印象は変わるだろうか。

この一人称で回想される物語を、読者がべつの視点を想定して(三人称視点からとか)読み直すことは可能だ。表層のストーリーは、むしろ映画的と言ってもよい。スペクタクルとなっているだろうと想像できるシーンもある。

アウシュビッツやビルケナウを訪問する成長した主人公の場面など、そのトーンも想い浮かぶ。映画は、原作よりも感動的な(登場人物たちに感情移入できる)物語になっているのではないだろうか。

ふと、いま、遠藤周作『私が棄てた女』を思い出した。
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by sasakijo | 2009-07-16 16:25 | 本の話題
『ラスト、コーション』(アイリーン・チャン、集英社文庫)

タイトルに注意。中グロではなく、点。『LUST,CAUTION』、中国語の原題は中グロ入りの『色・戒』。抗日戦争下の上海、重慶政府派と南京政府派との暗闘を、重慶派女性スパイの視点から描いた秀作だ。

映画版のDVDを観て、いったいどんな短編からあの大作映画が出来るのか気になっていた。読んでみると、描かれる時間は、南京政府派要人の易(映画ではトニー・レオン)暗殺計画がまさに実施されようとしたその日だけ。視点はおおむね女性スパイ佳芝(ジアジー)のものだけれど、最後は易の視点で締めくくられる。

映画を観ていなければ、記述のいくつかの意味に気づかなかったろう。とくに香港のエピソードは、主人公の回想の中で簡潔に書かれているだけ。なのにあの映画を支えるだけの豊かさを持っていたのだ。逆にあの記述から、あれだけのキャラクターたちやサブ・エピソードを作ってしまった脚本家の感受性もすごい。

クライマックスの舞台となるインド人経営の宝石店の構造は、映画に描かれたとおりだった。不思議な造りなのでその点も気になっていたが、映画はじつに正確にその描写を再現していたのだ。モデルとなった店がじっさいにあったのだろう。

じつは病院の待ち時間に読むべく持っていった文庫。思いのほか待たされず、表題作しか読めなかったが、収穫だった。
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by sasakijo | 2009-04-18 00:39 | 本の話題
『読書癖4』(池澤夏樹、みすず書房)
99年の刊行。持っているつもりでいたけれど、手に取ったら未読だったのであわてて買った。書評集。

求龍堂の『星の王子さまのはるかな旅』を取り上げた一篇がある。これは書評というよりは、『星の王子さま』論。池澤氏も『星の王子さま』を訳しているが、それはこの書評が書かれた後の05年。

ふと、最近、斉藤美奈子も『星の王子さま』の翻訳ラッシュを話題にし、訳を比較していたことを思い出した。
『文芸誤報』(斉藤美奈子、朝日新聞社、08年)。彼女はここで、岩波書店の内藤濯訳から、倉橋由美子訳、池澤夏樹訳など七冊の翻訳を比較して論じている。

じつはわたしも去年、あるサークルで『星の王子さま』の英語版をかなりみっちりと読むという体験をしている。ほぼ四十年ぶりの『星の王子さま』体験だった。四十年前には、当時の女子学生が熱狂するほどには面白く思えなかった童話(そのころだから当然内藤訳の日本語)が、去年突然「理解できた」。こういう話だったのかと納得できた。

いまWikipediaを読んでみると、すでにその解釈は、82年に塚崎幹夫というひとが『星の王子さまの世界~読み方くらべへの招待』(中公新書)という論考で主張していることだという。いま、この新書もAmazonで注文。ただし、その主張は、一部の読者には強い反感をもたれているらしい。

塚崎幹夫はこの作品を、「ヨーロッパで戦争に巻き込まれて辛い思いをしている人々への勇気づけの書」であると見ているのだという。わたしの読み方では、この作品は、ファンタジーの様式を借りた、かなり過激な反ファシズム文書。

池澤氏も書いているように、この作品でもっとも解釈が難しいのは、王子さまと、故郷の星の一輪のバラとの関係である。バラとは何の暗喩なのか? 王子さまとバラとの関係は、いったい何なのか? 単に恋人、単に恋愛ではあるまいとは、ほかのエピソードのトーンからも推測がつく。

本作品中でバラと対比される植物バオバブの木についての記述から、逆にバラが何であるかを考えてみるとよい。
バオバブの木は「芽のうちはバラによく似ているが、油断して摘まずにいると、たちまちはびこって地表を覆い尽くし、最後にはその惑星を爆発させてしまう」という、災厄のような植物である。

この記述のあるページの挿絵は、三本のバオバブの巨木が、小さな惑星をまさに内側から破壊し、爆発させようとしているところ。

作品が刊行されたのは、サン=テグジュペリがアメリカに亡命していた時期(43年4月)であり、彼がその後故国に戻り、ドイツ空軍との戦いの中で死んだことを考えれば、作品にこめられた政治的メッセージを無視することは不可能だ。バオバブの木とはすなわちファシズムであり、惑星を押し潰そうとしている三本のバオバブの木は、国際社会を破壊しようとしている三国同盟と見てよい。

逆にバラは、その芽のうちはファシズムにも似ているし、高慢で身勝手で、育てるためにはたいへんな繊細さが必要なものだが、しかしひとを幸福にしてくれる美しい何か、である。とくに王子さまの惑星のその一輪のバラは、名前を持った(池澤氏の言葉を借りれば、定冠詞的関係となる)特定の誰か、ということだ。つまり(不定冠詞の)バラとはデモクラシーであり、そして王子の惑星の一輪のバラは、民主的な社会を構成する具体的なひとりの市民ということになる。

ひとはときどき、貴様のような女とはもう会いたくもない、おれはどこかよその惑星に行ってしまうぞ、と叫びたくもなる(千葉知事選挙の結果などに、バラのお馬鹿っぷりを見てしまう感受性はけっしておかしくはない)。しかしそれでもあんたの惑星にいるあんたのバラは、ファシズムよりはずっとましな、大切な存在ではないか、大事にしろと、『星の王子さま』は小さな声で言っているのだ。物語のラストを想えば、そのバラはフランスそのものであるという解釈も可能だろう。


池澤氏も、斉藤氏も、『星の王子さま』の政治的メッセージには言及していない。ま、言葉にしてしまえば、今日では野暮ったくも受け取られるメッセージであることはたしかであるし。
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by sasakijo | 2009-04-04 20:58 | 本の話題

日曜の朝から

『チャイルド44』(トム・ロブ・スミス、新潮文庫、上下)をようやく読み終えた。

話題作であるし、何か言いたくなる作品でもあるのだが、ううむ。
スターリン体制下の連続猟奇殺人事件と、みずからの破滅も顧みずにこの事件に取り組む捜査官……。背景となる世界も興味深いし、素材も面白そうだった。でも、読後感はきわめて悪い。

一番の問題は、この作家が、スラブ人に対しても、ロシア社会に対しても、一片の共感も持っていないことではないだろうか。フリーマントルやマーティン・クルーズ・スミスを引き合いに出したくはないが。

視点の転換も目まぐるしすぎる。ときどき混乱する、というようなレベルではない。おおげさに言うなら、数行ごとに追跡者と追われる者との視点が入れ代わる。1行空けて節を分けることもせず。

読者はそのたびにつっかかり、当惑する。作者にはたぶん、視点、という概念さえない。初稿段階でなぜ編集者は指摘しなかったのだろう?

とても苦手なタイプのミステリ。 
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by sasakijo | 2009-03-15 10:47 | 本の話題