ここは佐々木譲が開設している備忘録ブログです。日々の暮らしと、本、映画について書いています。


by sasakijo

カテゴリ:日記( 113 )

わたしの今年の重大ニュース。
順不同です。思いついたものを、おおむね時系列に。

・『婢伝五稜郭』(朝日新聞出版)刊行。単行本刊行前の昨年10月、グループ虎のプロデュース公演として、俳優座劇場で舞台化されました。

・3.11体験。その日わたしは札幌にいたけれども、いろいろな意味で。

・フィレンツェ・ロングステイ。『獅子の城塞』(小説新潮で連載)の準備で、フィレンツェのアパートメント・ホテルに4月末から5月末まで一カ月滞在。ここをベースに関係各所を取材。『密売人』の後半を書いたのも、この時期。

・小型船舶操縦免許一級取得。海洋冒険小説執筆準備の第一段階、船と海とについて体系的に学ぶべく、まずは尾道の専門学校で短期集中合宿を受け、免許を取得しました。わたしは外洋に出て行ける海の男です。

・『密売人』(角川春樹事務所)刊行。道警シリーズの第5弾。某警察本部の捜査情報漏洩と、関係した警部の自殺事件をヒントにした作品です。

・ヨーロッパ取材旅行。『獅子の城塞』取材のため、オランダ(ブレダ、ヘレブートスライス)、スペイン、ポルトガル取材。ポルトガルは今度の取材旅行が初めての国でした。

・『警官の条件』(新潮社)刊行。『警官の血』の続篇です。安城一族三代目の警察官・安城和也と、彼が「売った」先輩刑事・加賀谷仁とが再度対峙する物語。

・練習帆船あこがれで、5泊6日のセイル・トレーニングを受ける。海洋冒険小説執筆の準備、第二段階です。帆船を「身体で知る」ふたり目の日本人小説家となりました。ひとり目は小川一水氏。

・札幌大学での講演で、人生の秘密をカミングアウト。高校時代から二十歳のころにかけて、わたしは美術系クリエーター志望だったのでした。苦い断念の記憶なのですが、ようやくそのことを語れるようになりましたね。

・日本アレンスキー協会名誉会長就任。協会設立記念コンサートであいさつ。冗談で就いてしまったような名誉ポストですが、おかげでいつになく真剣に音楽を聴いた年ともなりました。

・『地層捜査』(文藝春秋、2012年2月刊行)の舞台化決定。オール読物に連載中に舞台化と決まり、かなり早い段階から制作準備に関わりました。お芝居への関わりがいっそう深くなっています。

・メインのデスクトップPCを入れ換え。Windows7環境に。わたしにとっては、やはりかなりのおおごと。

来年も、いい重大ニュースが続くことを期待して。
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by sasakijo | 2011-12-31 00:17 | 日記

絶対安全、の虚構

午後4時の枝野長官の会見を見るかぎり、深刻な事態は脱したのかもしれない。被曝や爆発の危険の中、献身的に注水作業にかかっている現場のひとを想うと、つくづく頭が下がる。同時に、現場の犠牲によってこのデリケート過ぎるシステムを維持することの限界も思う。

いまこの時点でも原発絶対安全を主張するひとたちは、たぶん科学者・技術者の知性に対して無条件の信頼があるのだろう。しかし阪神大震災を思い出して欲しい。被災直後、関わった地震学者が、高速道路の建設計画のために想定数値を低く報告したと告白していた(その後の追及はなかったが)。

LA地震のときに視察した日本人学者たちは、高速道路の崩壊現場で「日本では絶対に起こらない」と強調していた。この映像は、阪神大震災直後、アメリカ、カナダの放送局で繰り返し流れた。日本人学者たちのレベルが嘲笑されていたのだ。

また、絶対の安全性を確保するはずのプラント設計は、施工業者によって具現化される。仕様書の指示から鉄筋を何パーセント抜くか、それを追求する業界が建設工事を請け負うのだ。

設計が目標とした耐震性も強度も、じっさいは図面上の数値に過ぎなくなる。やはり阪神大震災では、崩壊した高速道路の橋脚から、鉄筋の代わりに何が出てきたか思い出そう。


ビル建設の作業員として働いた実体験で記せば、工事途中の検査はしばしば無視される。型枠組みのあと、その検査前日に生コンクリートを打ち込み、検査省略は「手違い」として工事は進む。このとき、コンクリート打設部分を解体して一からやりなおせ、と業者に命じる検査員(あるい施工主側幹部)はいない。

なぜ建設業者が検査を逃れるか、理由は書くまでもない。

また、安全を担保するはずの厳格に定められたマニュアルが、現場ではしばしば「弾力的に運用される」ことも、東海村JCO臨界事故で、わたしたちは承知している。

なるほど、技術者たちは設計段階では「絶対安全」をクリアしたかもしれない。しかしプラントが出来上がってゆくあらゆる過程で、その技術的裏付けは骨抜きにされてゆく。稼働したあとも同様だ。結果として、設計上は起こるはずのないことが起きて、技術者たちは首をひねる。

アポロ計画では、宇宙船の部品のすべてにわたって99.9999パーセントの信頼性を確保したという。それができたのは、宇宙船がそのサイズの工業製品であったからだ。原子炉はともかく、原発プラント全体は、同じ基準での管理は不可能だ。

鎖の強度は、もっとも弱い輪の強さで決まる。巨大な原発プラントに一カ所でも、手抜き工事、もしくは施工ミスがあれば、めざした強度は持ち得なくなる。作業員が「燃料計から目を離した」という事態も、技術者たちは想定していないだろう。

ふつうの「現場の感覚」があれば、「原発は絶対安全」という主張など、虚構もしくは意図された神話に過ぎないと身体で認識できる。

そしてその虚構に寄りかかることのリスクは、火力や水力発電システムの比ではないのだ。

節電? 受け入れようじゃないか。二者択一だというなら。
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by sasakijo | 2011-03-15 17:39 | 日記
札幌の人気劇団TPSが、代表作の3つの演目を一カ月上演するという試み。このうち『冬のソナチネ』『西線11条のアリア』を観た。

http://www.h-paf.ne.jp/ 

『西線11条のアリア』は2005年初演の名作。札幌の路面電車の停車場を舞台にしたファンタジーだ。ネタばれでも十分面白いと思うので書くが、札幌の市電というきわめて日常的な乗り物が、じつは「銀河鉄道」だったという作品。

TPSを主宰するのは、東京のメディアでも俳優として活躍する斉藤歩。音楽にも強く、劇中の音楽もオリジナルを作曲してしまう。

役者さんたちも何かしらの楽器を演奏するひとが多く、それがTPSの舞台に豊かな音楽性を与えている。『冬のソナチネ』では、札幌交響楽団のメンバーだった土田英順さんがチェロを弾く。TPSのロングラン公演は3月27日まで。


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by sasakijo | 2011-03-11 08:54 | 日記
映画『アレクサンドリア』を観た。原題は『AGORA』、監督アレハンドロ・アメナーバル。
http://www.youtube.com/watch?v=FOrmvCuBpKQ

舞台は4世紀のエジプトのアレクサンドリア。とくに、四世紀かけて再建されたアレクサンドリア図書館で物語の多くが進行する。

主人公は、当時アレクサンドリアに実在した女性天文学者、数学者。ヒュパティア、と字幕に出る。これはギリシアふうの発音なのだろうか。音では「ヒュペイシア」。図書館の外では宗教対立が戦争レベルに達しているのに、彼女は地動説と、地球の周回軌道が楕円であることの証明に取り組み続ける。

理性と科学の象徴としての図書館と、これを無用とするひとびととの攻防戦の映画でもある。図書館支持派のわたしには、それだけでも共感度は高い。

当時のアレクサンドリアのオープンセットとCGがいい。ときどき視点が天文学的な高さに移るので、ちょうどグーグルアースの航空写真で当時の地球を眺めるような映像となる。クレジットを見ると、セットはマルタ島に作られたようだ。

歴史映画として、この作品が描くものは「古典古代の自由と明晰さの滅亡」の瞬間であり、キリスト教の伸張による「暗黒の中世」の起源である。キリスト教が人類を退歩させた、とはっきり言っているわけで、古代史もの映画としてはかなり過激なメッセージを持った作品だ。

広場(AGORA)では、キリスト教伝道者が、子供だましの「火渡りパフォーマンス」をおこなって、奴隷や貧しい人々の支持を集める。広場が、対話や議論の場から、熱狂やリンチの舞台へと変質していく様子も悲しい。

アレクサンドリア図書館襲撃のシーンでは、キリスト教徒が、書物を右手に掲げた神像を破壊し、喝采する。わたしはスペインでイエズス会創設者ロヨラの生地を訪ねたことがあるが、そこではロヨラが書物を踏みつけにしている像が崇められていた。理性と科学の否定。あの像を思い起こした。

「反知性主義」批判の映画、であり、ポピュリズムを熱く否定する作品。また、図書館映画、というジャンルでは、いずれスタンダードの一本として語られることになるだろう。

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by sasakijo | 2011-03-06 13:08 | 日記

表現形式の原点

図書館問題から思うこと。


すべて表現は、路上ライブが原点である。音楽であれ、小説であれ、演劇であれ。そしてそれら表現者を路上ライブに立たせるものは、直接的にはおカネではない。どうしてもこれを表現せずにはいられないという衝動である。

その衝動を持った人間だけが、原理としての「路上ライブ」の時代を受け入れることができる。その時代が終わっても、抑えきれない表現欲求のままに路上に立った自分が自分の創造的営為の原点であると、意識し続けることができる。

路上ライブでは食えない? そのとおりだ。しかし音楽でも演劇でも、屋根のある空間でパフォーミングできるようになっても、多くのひとたちはそれだけでは食べてゆけない。文芸の世界だけ、たとえば本を出したということで表現者の中で特権的な存在になれるわけではない。

表現への衝動とは本来、「身銭を切っても」「生活をあとまわしにしても」抑えようのないものだ。その点で少しでも優先度の高いものがほかにあるのであれば、路上ライブの時代のうちに、そちらを選び取るべきだ。

文芸でも、中上健次の時代までは「身銭を切って同人誌に参加する」発表形式が併存していた。そもそも新人賞からすぐ商品としての「本」の刊行というシステムが日本で整備されたのは、せいぜいこの三、四十年のことだろう。

しかし「本」というパッケージ商品での発表形式は、文芸の普遍的な属性ではない。地球上の多くの土地では、作家たちはまず朗読会で自作を発表する(本を作るより、発表コストはずっと低い)。

わたしは東欧の朗読会を直接知っている。また一度行ったことがあるが、80年代後半、アメリカ・ペンクラブの、ニューヨーク、イーストビレッジの本部でも、毎週のように朗読会が開かれていた。

映画『カポーティ』に描かれた高額入場料の朗読会を最高ランクとすれば、無名の新人たちはまず近所の喫茶店や図書館での「無料の」朗読会から始めていることだろう。

この場合、「うちの店でやってみないか。経費は持ってやるから」と言ってくれる喫茶店主が、いまの日本の出版社にあたる。彼は「評判がいいようだったら、定期的にうちで開いてくれよな」とも言ってくれることだろう(だから世界的にみても、日本の作家たちはきわめて恵まれた環境の中にいるのだ)。

文芸でもこのようにライブが発表形式の原点であるが、原理的には屋根のある会場での朗読会の前に、「路上ライブ」がある。すべての表現者は、カネにならなくてもその表現、その創造活動を続ける意志があるかどうか「路上ライブの時代」に問われる。

その時期に小説家は、読者を少しずつ自分のまわりに(自分の声が聞こえる範囲に。原稿コピーを手配りできる範囲のうちに)作ってゆくしかない。いきなりマスマーケットの読者ができるというのは、例外的なことなのだ。

自分の作品を知る者が少ないなら、多くの路上で、いくつもの喫茶店で、作品のさわりでも伝える努力をすべきだろう。そしてその負荷を考えるなら「無料で」自分の作品の読者を増やしてくれる公共図書館という制度は、けっして否定すべきものではない。

小説家(エンターテインメント系の小説家を想定している)は、芸能シンジケートからデビューするアイドル・タレントとはちがう。同じ芸能人でも、ゲリラ・ライブから始めるお笑い芸人に近いかもしれない。

もっと言えば、小説家は、講談師、辻講釈師、お噺衆の血を引く表現者である。JASRAC的ビジネス・モデルの中で生きようと考えるべきではない。

路上で一席聞いてもらったのに投げ銭がなかったら、文藝家協会に駆け込むのではなく、次はもっと面白く聞かせるよと胸に誓うだけだ。
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by sasakijo | 2011-01-28 17:15 | 日記

読者を育てる制度

Twitterにも書いたけれど、こっちにもまとめとして。


同業白石一文さんが、図書館で書き下ろしと銘打たれた本を借りないでくれ、と書いている。印税について数字を出したうえで、「皆さんが図書館を利用すると良心的な作家ほど行き詰まる」と。この問題については何度かブログにも書いてきたけれど、わたしは図書館を作家の敵とは思わない立場だ。

なにより、読書家としての自分が図書館で育ったという自覚がある。若いとき、貧しいが読書欲は旺盛だったころ、もし世の中に図書館がなかったら、その後わたしはこれほど本を「買う」大人になったろうか。むしろわたしは、自分の本を公立図書館のすべてが買ってくれたらと願う。

図書館は本一般の読者を育てるだけではなく、わたしの読者も育ててくれる。図書館で単行本を借りたひとがわたしの読者となってくれたら、そのひとはやがて購入者ともなってくれるはずである。作品を知る、作家を知る、その回路を狭めて、読者が増えることはありえない。

ある図書館でわたしの本が10人に借り出されたと聞けば、わたしは10冊分の印税がふいになったとは考えない。10人の読者ができたと考える。そしてそのうちのただのひとりにも、次は買おうと決意させることができなければ、それは作家としてのわたしの負けだ。

たしか内田樹教授も図書館について書いていたはずと思ったけれど、どの本に収録の論考だったろう。わたしは内田教授の図書館論に共感する。図書館という制度を、支持する。
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by sasakijo | 2011-01-24 16:07 | 日記

謹賀新年

2011年の単行本ほか作品刊行の予定。

・単行本
『婢伝五稜郭』朝日新聞出版
『警官の条件』新潮社
道警シリーズ第5弾、タイトル未定
『地層捜査』文藝春秋

電子絵本iPad版2点、HAJ

さらに
『英龍伝』(毎日新聞社)加筆。

などです。
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by sasakijo | 2011-01-01 12:44 | 日記

今年一年を振り返る

年末特別企画。今年一年を振り返る。
わたしの私的重大ニュースを、時系列に。

直木賞受賞。永年勤続表彰である。授賞式の夜、作家仲間たちが遅くまでお祝いしてくれたことが感激だった。

『北帰行』刊行、角川書店。「道行」サスペンス。設定は稚内でじっさいにあった事件をもとにしている。

『警官の条件』小説新潮、連載開始。『警官の血』の続編を書くという無謀な企てに踏み出した。

札幌交響楽団、指揮・高関健で、ショスタコーヴィッチ交響曲第8番を聴く。ショスタコ全曲ライブ制覇を決意させてくれた。

季節的避難地引っ越し。引きこもりにならないよう、少し利便性の高い場所に移した。

体重が危機ラインを突破。ストレス性過食が続いたせい。わたしはもう留保なしのメタボだ。

劇団さっぽろ『五稜郭残党伝』函館公演。自分の仕事がお芝居づいてきた感覚。

『地層捜査』オール読物、連載開始。警視庁の捜査員を主人公にした警察小説。四谷荒木町が舞台。

『カウントダウン』刊行、毎日新聞社。夕張市に取材した、ポリティカル・ノベル。

グループ虎『婢伝五稜郭』俳優座公演。座付き小説家なので、お芝居のための原作をこれからも積極的に書いてゆく。

ベトナム、ホーチミン・シティ旅行。マジェスティック・ホテルに滞在。

電子絵本(iPad版)『サーカスが燃えた』を世界に配信。日本のAppStoreでのDL数、無料アプリの部門で総合1位を一週間キープ。
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by sasakijo | 2010-12-30 23:05 | 日記
きょうの宝島社の全5段広告(わたしは朝日新聞朝刊を見た)は、議論を呼ぶことだろう。ヘッドコピー「本屋のない町で私たちは幸せだろうか?」 その下に1行。「宝島社は、電子書籍に反対です」 

この問いかけと、宝島社の宣言の論理的な関係がよくわからない。宝島社は、電子書籍が町の書店を消滅させると主張しているのか?

電子書籍が現実に市場に出てきたのは、Kindle(日本語対応)とiPadが登場した今年だと言ってよいだろう。これ以前の電子書籍は、規模として無視できる。しかし、書店の減少は今年突然起こったのではない。ネットで数字を調べると、こうだ。
1992年 全国書店数22500
2001          20939
2010          14059

電子書籍が存在しないときから、書店は減少していた。とくにこの10年の減少数は多い。本の流通問題を取り上げた佐野真一のルポ『誰が本を殺すのか』刊行は2001年である。書店減少問題はそのころから顕在化していた。つまり電子書籍と書店の減少とのあいだには、まったく因果関係はない。

また日本でインターネット書店が登場したのは、1995年。その年、丸善がネット書店ビジネスに進出し、翌年には紀伊国屋書店がネット書店をオープンさせた。Amazonの日本進出がちょうど10年前の2000年。だからネット書店の成長と書店数の減少とには、強い関係があるだろうとは推定できる。

じっさい北海道の郡部に住んでいたわたしには、ネット書店の品揃えと配達の速さが魅力だった。それまでのように地元の書店に注文してから届くまで2週間から4週間かかっていては、仕事にならない。わたしはネット書店をよく使うようになった。

Amazonが進出してきたとき、書店寄りの(読者、利用者寄りではない)ある文芸評論家が書いた。「本はそんなに急いで読まねばならないか?」 書店に本を注文しても遅い、という読者側の不満を誤りだと主張したのだ。改革努力必要なしと書店を擁護したつもりだったのだろうけれど、結果はどうだったろう。

注文に即時対応できるシステムの構築が遅れたせいで、とくに郡部の書店で客が消えたのではないか。この流通上の問題を「問題」とも認識しなかったひとたちに、この事態の責任はないか。

郡部の書店には大打撃だったろうが、しかしネット書店は本の流通を活性化させたことも確実なはずだ。本の寿命は長くなり、いわゆるロングテール現象が生まれた。レビューが蓄積されてゆくことで、本の評価を知りやすくなった。古書も探しやすく、買いやすくなった。新刊の売り上げと書店数は減少しても、古書を含めた本の流通量、流通額は、ネット書店登場後、むしろ増加しているはずである。

神田神保町の様子を考えてみてもいい。厳松堂の閉店は衝撃的なニュースだけれど、この10年、あの町には新しい古書店のオープンが続いている。書店数が増え、集積度が高まって、本の町として年ごとに魅力は大きなものになっている。本の読者がそれほどに減り、本が「売れていない」としたら、神田神保町のあの活況を説明することはできまい。

またどんな産業のどの業種にも盛衰はある。印刷技術のこの40年を考えてみても、活版から写植、電算写植、DTPへと革新が続いたことで、この間に転業、転職、廃業を余儀なくされた人々は少なくなかったはずだ。なのに出版流通だけが、変わらないでいられるはずもない。

町から書店を失わせるものは、(いま世の中に出てきたばかりの)電子書籍ではない。電子書籍を憎んで背を向けたところで、事態は改善しない。宝島社はいま「本屋のない町で私たちは幸せだろうか」と問うよりも、10年前に「私たちはどんな本屋のある町なら幸せか」と問うべきだったのではないか。

わたしは本が好きだということで人後に落ちないし、いい書店と、いい書店のある町を愛する。しかし同時に電子書籍の可能性にも期待するし、それが広げる表現の世界にも関わってみたいと願っている。本・書店、と電子書籍とは対立するものではない。電子書籍が完全に本にとって代わるとも思わない。

宝島社、ずれてる、と評価されることは心配ではないか。明日の株価(上場していた?)はどうなるだろう。
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by sasakijo | 2010-11-17 00:06 | 日記

こっちのジャックも

仕事の合間に、テレビ・シリーズ『WITHOUT A TRACE / FBI失踪者を追え!』ファースト・シーズンを観てしまった。FBIニューヨーク支局の中の失踪者特捜班(架空の組織)の活躍を描くもの。

最終話は、911の後遺症をめぐる物語で、「人質立てこもり犯罪」が素材。前後二回に分けられた長編だ。そのひとつ前のエピソードはFBI内部監察の物語で、それまでのエピソード中、観客にも違和感のあったチーフによる捜査指揮の検証。

最初に書いてしまうと、アメリカ司法捜査員の「ジャック」は、どうして誰も彼もそう簡単に部下の女性とできてしまうんだ?という印象だ。ストレスの多い職場で、それはたぶん実際に多いことなのだろうけど。

失踪、誘拐のバリエーションが手を替え品を替えて提示される。アメリカの場合、911のみならずベトナム戦争までも、いまにつながる事件の背景として使える(視聴者の側に、認識の共有がある)。日本で同様のシリーズを作ろうとしても、バリエーションはさほど豊かなものにならないだろう。

ファースト・シーズンの全エピソードを見たが、ボスのジャック・マローン(アンソニー・ラパグリア)には、ついぞ格好よさを感じられない。捜査指揮に特別のきらめきがあるわけでもない。チーム掌握のしかたも凡庸だ。家庭不和について愚痴を言いすぎる。

俳優のせいかもしれない。役者がちがうと、彼の印象はがらりと変わったのではないかという気もするのだが。

セカンド・シーズンを観る前に、つぎはFBIの行動分析課(プロファイリング・チーム?)が主人公の『CRIMINAL MINDS』にかかろう。
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by sasakijo | 2010-11-13 09:33 | 日記