ここは佐々木譲が開設している備忘録ブログです。日々の暮らしと、本、映画について書いています。


by sasakijo

<   2009年 06月 ( 12 )   > この月の画像一覧

足利事件を考えるときに

『幼稚園バス運転手は幼女を殺したか』(小林篤、草思社)
足利事件についてのすぐれたノンフィクション。高裁でも有罪判決が出た時点での刊行である(2001年2月1日初版)。足利事件は冤罪事件であるという立場からの捜査、司法判断についての検証。

著者はとくにDNA鑑定の信頼性に疑問を向け、その部分の専門的な記述に行数を割く。本書刊行の時点ではまだ、この疑念は一般的な認識とはなっていなかったのではないだろうか。正直なところ、この部分はわたしにはよく理解できたとは言えない。

科学捜査研究所が、警察の内部組織であることについて、批判は多い。本書でも、DNA鑑定を担当したふたりの技官は、科学者、技術者としての良心よりも、警察機関の職員である立場を優先させるのだ。

逮捕されたSさんの精神鑑定を担当した福島章も、ひどく人格の歪みを感じさせる心理学者である。なにより彼はただの学者ではなく、アーチストであるのだそうだ。そして逆に被告を「代償性小児性愛」「恵まれない知能と性格」「人間的な高等な感情が表出されることはない」とし、あげく「低能」という言葉さえ使って表現する。

彼は精神鑑定人として全部で七回、精神鑑定のために面接を行っているが、実際はそのうち四回は教え子の女子学生にやらせている。「精神鑑定はアーチストの一期一会の作品である」と主張する彼が、じっさいは作業の一部を他人まかせにして、ひとを小児性愛者と決めつけていたのだ。

弁護団は、二審を前に福島章本人がおこなった三回の面接記録を明らかにするよう求めたが、福島は拒んだ(現在に至っても福島章は公表を拒否し続けている)。

一審の久田弁護士は、逮捕されたSさんに接見しても、ろくに事実を確かめようともしない。彼は五十万円の弁護費用を持参した被告の家族に言うのだ。「まあ十年だな、精神鑑定でやってみるか」

新聞が当時も、どれほど醜悪な報道を繰り広げたかは、ここに記すまでもない。

ともあれ、じつに読みごたえのある、しかも誠実で節度あるルポルタージュ。Sさんの無罪が事実上確定したいま、草思社は本書の増補改訂版を出してもよいのではないか。
[PR]
by sasakijo | 2009-06-29 19:49 | 日記

安永徹が聴ける!

札幌交響楽団から、今年後半の演奏会の詳細案内が届いた。
お、安永徹(敬称略)が札響と共演! 9月13日だ。
よい席(おしゃべりする客は排除されてしまうような席)を予約しよう。
[PR]
by sasakijo | 2009-06-26 07:49 | 日記

彫刻の森を歩く

きょうも札幌滞在。北海道はずっと天候不順だったけれど、ようやく六月らしい空。
札幌芸術の森に出かけた。鈴木吾郎展を観たこともあって、その勢いで、もっとたくさんの彫刻を観ようと。

丘陵地に拓かれた札幌芸術の森には、彫刻を展示した野外美術館がある。これまで二度行っているが、芸術の森センター(レストランがある)裏手の佐藤忠良、本郷新の小さなエリアしか観ていなかった。なんたって、全体で7.5ヘクタールという広さ、気合を入れないととても全部は回りきれない。

ボランティア・ガイドさんがいるというので、その時間に合わせてゆくと、幸運なことにガイドさんをお願いしたのはわたしひとり。説明を独占して聞きながら、園内をまわった。

第三期工事で完成したイスラエルの彫刻家ダニ・カラヴァンのエリアが、いまのここの目玉らしい。最初の「門-1」という作品から最後の「隠された庭」まで、二百メートルほどの距離に、八種類の大型造形作品。上り斜面にできているので、これを観るだけでもうバテ気味。丘の奥の福田繁雄らのエリアはパスしてもらった。

ノルウェーのグスタフ・ヴィーゲランの広場がちょっと印象的。5点の大作がほぼ円形のスペースを囲む。25年という期限つきのレンタル作品の展示なのだという。その先、安田侃の「間」という作品は尾根の上。ぜいぜい。

佐藤忠良の作品五点は、丘から下ってくると現れる小さな沢の両岸にある。このように、自然(ふう)の水の流れと組み合わせた展示は佐藤忠良の作品群だけ。このエリアだけ、庭園全体の中で空気感がちがう。

わたしの好みは、「足なげる女」それに、佐藤オリエをモデルにしたという「冬の像」。
その先に、佐藤忠良記念子供アトリエという施設が新設されていた。ここにも小品が二十点ほど展示されている。それにデッサン類が五、六点。

ここまでで一時間三十分。距離で言えば、全体の半分ぐらいだろうか。ボランティア・ガイドさんにはここでお引き取り願い、コーヒー・ブレイクとしてから、子供アトリエ裏手の具象作品の園遊路を歩いた。雨宮敬子「花まい」、本田明二「道標-けものを背負う男」がよかったな。

ちなみに、わたしの「彫刻の庭」の発想の原点は、目黒にある「長泉院彫刻美術館」だ。ここの屋外展示場がいい。急勾配の斜面に造られた、高低差のある小さな庭。ある短編に、この庭を登場させたことがある。
[PR]
by sasakijo | 2009-06-25 20:29 | 日記

オブジェが話しかける庭

札幌の時計台画廊に『鈴木吾郎テラコッタ自選展』を観にゆく。
小樽在住で、佐藤忠良の弟子筋にあたる(と言ってよいのだろうな)彫刻家さん。テラコッタという温みのある素材が、丸みあるひとのフォルムとよく合っている。とくに風をはらんだ髪の処理が独特。とてもいい作品展だった。

作品の何点かには、価格が示されている。この大家ならさもありなんという額。

じつは、農場の裏手を「彫刻の庭」としようと構想している。十二年という時間がかかったが、ようやく木々もそこそこに成長した。これから、細部造り。ただし園芸に手をかけられるわけではないので、ロック・ガーデンとすることもいちおう考えたのだった。

使い方としては、眺めるためではなく、歩くための庭。思索や瞑想のための禁欲的な空間ではなく、なごみ、リラックスするための、うるおいのある小さな世界。

そう考えると、ロック・ガーデン案は落ちる。石ではなく、情感のあるオブジェが欲しい。それも、キューピッドの噴水ではなく、現代彫刻。つまり、彫刻の庭。小品を三~五点、設置して、園遊路でつなぐのがよいだろう。

彫刻の庭とするとして、仕事場の周辺は、防風林の垂直線と、地平線という水平線しか要素がないという風景だ。また、厳しい気候の土地だから、せめて庭にだけは、柔らかな曲線が欲しい。となると、抽象彫刻ではなく、人体をモチーフとしたものがふさわしいだろう。材質はブロンズか。

というわけで、このところ美大の卒業制作展とか団体展、公募展を、時間が許す限り回っていた。ひとりの作家の作品で統一したいと思っているし、予算にも限度があるから、よい新人作家とめぐり会えることを期待して。

ただ、絵と違い、彫刻の場合は邂逅の機会がとても限定される。展覧会を回っていては、時間がかかるだけかな。

ともあれ、そういう理由もあって、鈴木吾郎の作品展だったのだ。
[PR]
by sasakijo | 2009-06-25 09:38 | 日記

音信不通となります

継続していた仕事が最終追い込み態勢となった。一日集中力が切れただけでも、周囲にたいへんな迷惑をかけることになる。なので関係各位には、当面、雑務の依頼や社交のお誘いは遠慮してくれとお願い。eメールについても、対応できる用件以外では返信できません。ご了解を。

業務連絡的なことはこのブログでは書かないつもりだったけれど、重大案件なので。
[PR]
by sasakijo | 2009-06-21 10:03 | 連絡

アトリエの扉を開けて

『アトリエの巨匠に会いに行く』(南川三治郎、朝日新書)
著者が世界の推理作家を訪ねた『推理作家の発想工房』(文藝春秋)はよい写真集だった。
本書は、同じコンセプトで著者が世界のアーチストを訪ねてインタビューし、その仕事場もしくは住居を写真に収めたもの。芸術新潮や週刊読書人に連載されていた。本になるのが楽しみだった。

推理作家と較べると、ここに紹介されたアーチストは変人揃いだ。推理作家たちがみなストイックで、修道僧のような、うんと悪く言っても小市民ふうの生活を送っているのに対し、アーチストはたいがい奔放、偏屈、対人関係では頑固。自宅でのインタビューには応じても、アトリエは見せないひとが大半なのだ。

アトリエが撮影できなかったアーチストについては、住居のほうをたっぷり見せてもらいたいところだ。でも新書なので、写真の点数がまるで足りない。著者は十分なだけのカットを撮っているはずだから、新書ではなく、もっと大きな体裁の本とすべきだったのではないか。大型本にできるだけの写真であり、インタビューだと思うが。

そうそう、『推理作家の発想工房』で、著者は、ディック・フランシスは自分では書いていないのでは、という疑念をさらりと書いていた。ではほんとうのライターは誰か、にという疑問についても、ヒントめいた書き方があった。あの疑念は結局無視されたままかな。それとも決着した問題なのだろうか。
[PR]
by sasakijo | 2009-06-17 23:38 | 日記
『シネマの名匠と旅する「駅」』(臼井幸彦、交通新聞社新書)

交通新聞社新書、というシリーズができたのだね。本書は003とノンブルが打ってある。6月15日初刷。16日2刷。ん? きょうはまだ15日だが。

著者は集英社新書で『映画の中で出逢う「駅」』というエッセイ集も出している。あの新書も、軽度テツのわたしには面白く読めた本だった。本書は同コンセプトで、交通新聞という業界紙に連載された文章をまとめたもの。

前作が手元にないので(こういうとき、最低限の資料しか置いていない避難地は不便だ)きちんと比較はできないが、本書のほうがマニア向けのうんちくが多いかな。「××駅という設定だが撮影は××駅」とか、「××行き列車は、この駅から発着したことはない」とか。

著者の専門が土木工学で、JR勤務だったということもあり、駅舎の建築学的解説も要を得ている。逆に言えば、語られる中身はさほど映画のストーリー寄りではない。もう少し映画への思い入れの強い文章でもよかったのに、とないものねだり。
[PR]
by sasakijo | 2009-06-15 23:31 | 日記
きょう観た映画も、イギリスの姉妹の物語。
『ブーリン家の姉妹』(監督ジャスティン・チャドウィック)

ヘンリー八世の時代のイギリス王室(とその大奥)を舞台にしたコスチューム・プレイ。
『一千日のアン』のあのアン・ブーリンと、その妹メアリーが主人公。メアリーはヘンリー八世の側室に、アンは正式に王妃となる。

ナタリー・ポートマンが、勝気で策略家のアン・ブーリン、スカーレット・ヨハンソンが純でつつましやかなメアリーを演じる。最初、ストーリーを読んだあと、ふたりの役柄が逆だと思い込んでしまっていた。でも、観終わってみると、この配役にも納得できる。

クリスティン・スコット・トーマス、アナ・トレントも出演していた。わたしにとっては女優さんを観るだけでも満腹する映画。考えてみると、クリスティン・スコット・トーマスとスカーレット・ヨハンソンが母娘を演じるのは二度目だ。

ただ、素材が気の弱い男性には苦手なジャンル。性交渉、妊娠、流産、出産が繰り返しあけすけに語られる。それ以外のことは描かれないと言ってもいいくらいだ。だから、イギリスの宗教改革はずっと後景に退き、トマス・モアの処刑も出てこない。

日本で同じ種類の映画を作るとすれば、どこの家の姉妹の物語が適当だろう。
[PR]
by sasakijo | 2009-06-14 23:56 | 日記

物語としての「贖罪」

昨日は取材で、札響定期演奏会はパス。
きょうはDVDをまとめて鑑賞。

『つぐない』(監督ジョー・ライト)
原作(イアン・マキューアン『贖罪』新潮社)は読んでいない。
でも評判とレビューから、映画の語り口と構成とが気になっていた。

十三歳の想像力豊かな文学少女が、自分を取りまく大人の世界の真実をうまく把握できないまま、虚言(自分が作った物語)により姉とその恋人との関係を破壊してしまう。第一部、少女の目に映る世界と、大人たちが生きている世界とを対比させた描き方が巧い。第二部も、大河ラブロマンスふうの正攻法の演出。

しかし、この作品がメタフィクションであると明かされる第三部で、観客は当然ながらせっかくの感動の処理に戸惑う。

第二部の終わり近く、これがラストであるなら通俗すぎる、と思える「結末」がくる。じつはこれも妹(長じて作家となっていた)が作った物語。虚構の結末をつけたのは被害者である姉たちふたりを救済するため、とラストで弁明されるが、映像はこの言葉を裏切っている。姉とその恋人は、きわめて意地悪に描写されるのだ(「贖罪」の表現のはずのこの嘘の中でも、姉はbitchであり、豚小屋の上に住んでいる)。

あるいはこの作品は、物語を作ることで現実に悲惨をもたらし、そのことへの贖罪もまたべつの身勝手な物語になるしかない小説家の業についての小説(の映像化)、とも言えるのかな。原作をいま注文した。

ほかにネット・レンタルで借りていた『CSI・NY』を第一話から四話まで観る。これは資料としての鑑賞という意味合いのほうが強いか。
[PR]
by sasakijo | 2009-06-13 23:29 | 日記

Coyoteで新連載

Coyote(スイッチ・パブリッシング)で、新しい連載が始まりました。
『旅行記を旅する』という、書評、書物紹介の体裁を取った、わたし自身の旅行エッセイ。ちょっと企みがあって、『幻影シネマ館』同様、取り上げられている旅行記は架空のものです。第一回なので、フィクション、と断り書きはつけてあるけれど、次回以降はその注をはずします。
イラストは赤井稚佳さん。

この第一回で取り上げた本は
『セントマークス・プレイス65』(高見沢裕、鶴書房、1967年刊)
Amazonで検索をかけても見つかりません。
[PR]
by sasakijo | 2009-06-12 14:27 | 連絡