ここは佐々木譲が開設している備忘録ブログです。日々の暮らしと、本、映画について書いています。


by sasakijo
昨夜は流山児事務所の『代代孫孫』を下北沢ザ・スズナリで。原作は韓国の劇作家パク・クニョン。温泉ドラゴンのシライケイタさんの脚色・演出。いわいのふ健さんはじめ、温泉ドラゴンのみなさんの出演で、グループ虎がお世話になっている近童弐吉さんも。

2013年に温泉ドラゴンの『birth』ソウルでの公演をお芝居仲間と観にいった。このとき打ち上げで、パク・クニョンさんともお酒を飲んでいる(同行した我らが女優さんにすっかり惚れ込んだ様子だったが、我らの演出家も負けじとパクさんの劇団コルモッキルの女優さんに熱心に出演を迫っていたっけ)。

韓国で上演すればこの作品はストレートな「一族の歴史」ものだけれど、シライケイタはこの原作の設定を逆転させ、台詞を完全に日本人のものに置き換えてしまった。すると、この舞台上の日本はかつて韓国の植民地であり、独立したけれども南北に分断され、ベトナム戦争にも参加した歴史を持つ、という国になる。ある種のパラレル・ワールドものという言い方もできるかもしれない。

ところが観ているうちに、この作品はパラレル・ワールドものというよりは、アクチュアルな近未来もののように見えてくる。韓国の近・現代史が、いま予想しうる日本の明日そのものではないかと思えてくるのだ。たとえばアメリカ軍後方支援で外国に派遣され精神を病んだ帰還兵の姿は、いまやけっして他人事ではない。

シライケイタ演出により、おそらくは原作者の意図を超えてヘビーな問いかけを持つことになった舞台。
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# by sasakijo | 2016-06-16 11:20 | 日記

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# by sasakijo | 2015-12-31 23:59 | 連絡

グループ虎とグループK

東京にいるあいだにお芝居2本。
『それはさておき恋はくせもの二の替わり』SPACE雑遊。
作・小松幹夫、演出は高橋征男(グループ虎)。わたしの原作舞台でお世話になっている石井ひとみさん、林真之介さん、久保田芳幸さんらの出演。ダンスは島明香さん、金刺航さん。

タイトルからは中身の想像はつかなかったのだけど、老人介護、老人虐待をテーマにした、かなりシリアスかつ同時代的なお芝居。この気分のまま劇場の外に出るのはきついなと思っていたら、最後に石井ひとみさんが歌い、島明香さんと金刺さんのダンスがあって、ふっと観客は舞台の世界観から抜けることができた。

もう一本は『スタンド・バイ・ユー』銀座みゆき館劇場。
香川耕二さんのグループKの公演。作・演出は湯澤公敏さん。やはりわたしの舞台作品によく出てくれている樋口泰子さん、福森加織さんらの出演。

主題はこちらも隣接していて、身内に先立たれた者の悲しみについてのお芝居。ただし、その実際の身内の死は、劇中劇の中に昇華されて、直接に前後の悲劇が描かれることはない。最後は若い未亡人となった樋口泰子さんの微笑だけが舞台の上に残って幕、という演出。全体の雰囲気は軽演劇というか、シチュエーション・コメディです。
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# by sasakijo | 2015-11-23 20:13
吉祥寺シアターで、「柿喰う客」の女体シェイクスピア・シリーズ第7弾『完熟リチャード三世』を観た。
「柿喰う客」の公演は、去年『へんてこレストラン』を初めて観て、本作が二本目。

「柿喰う客」中屋敷法仁の作品は、セリフまわしが独特だ。日本語を非日常的なリズムに載せて(たぶん作品ごとにそのリズムを違えている。いや、シェイクスピア・シリーズは統一されているのかな)、一本の作品を(百パーセントではないが)それで通す。『へんてこレストラン』は短い作品だったので、そのリズムは作品のトーンを決めた要素として心地よく耳に残ったけれど、1時間20分の本作では、やや単調、と感じたな。感情の起伏やテンションの高低を強調しない演出であるし。

チェス盤のような板が敷いてあるだけの舞台。セットなし。小道具も使わない。きわめて抽象性の高い作品。もっと言えば、ステージの「幕」さえも、「幕」を描いた書き割りなのだ(道具幕、か)。最初から虚構性が強く主張されている。

でも、シェイクスピア作品を少人数の女性だけで演じるという試みは面白かった。黒いドレスの女優さんたち七人が、出ずっぱりなのだ。

リチャード三世の安藤聖以外は何役も割り振られているのだけど、ある女優さんが別の役として初登場するたびに、べつの女優さんが「新キャラクターです」と紹介するのがおかしい。シェイクスピア作品のわかりやすいダイジェスト、としても観ることができるのではないか。

リチャード三世は、青年(少年かも)のような年齢設定になっている。醜いために疎まれて育った青年が、家族、一族に復讐してゆく屈折の物語。

わたしは『リチャード三世』が好きで、『天下城』の本能寺の変の章ではセリフを引用した。ふつう「是非もなし」と言ったことになっている織田信長の最期のセリフを、「馬を持て! 天下をくれてやる!」としたのだ。知人の英文学の教授が、「あれは『リチャード三世』ですね」と見抜いてくれた。
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# by sasakijo | 2015-02-15 23:00 | 日記
『四人目の黒子』弘前劇場
脚本・演出 長谷川孝治
札幌シアターZOO


 チラシで想像していた中身とは、まったく違った作品だった。
 チラシにはこうあるのだ。

「演じる」「演じない」という区別は人生においてあるだろうか。
全ての人間は、何かを演じている俳優ではないだろうか。
歌舞伎や文楽にみられる、あの「黒子」を題材に、「演じる」「演じない」を「フィクション」「ノンフィクション」に読み換えて、現実の虚構を丹念に描いていきます。

 実際の舞台は、このコピーとは離れ、黒子の意味も完全に違うものになっていた。たぶん制作過程で構想が変わり、長谷川孝治の「いま語りたいのはこのことだ」という、ある種の切迫感で作られた舞台なのだと思う。べつの言い方をすれば、長谷川孝治のカナリアとしての感受性を全面的に前に出して作られた舞台。

 ひとことでわたしの解釈を書くなら、社会の崩壊と、来たるべき戦争の恐怖についての作品だ。黒子たちは、破滅と戦争の暗喩である。わたしたちの日常の中に、それは静かに侵入し、増殖している。見えるものには、その黒子たちが見えている。

 ステージ上に設定されているのは、ある地方劇団の公演のスタッフ楽屋。数カ月前に韓国、中国公演をした、というこの劇団は、つまり弘前劇場そのものということだ。
 モニターで舞台上を観ながら、スタッフたちがごく日常的な会話を続けている。男たちの何人かは、黒子の衣装である。
 台詞にはいつもの弘前劇場的な軽みもあるが、垣間見えてくるものは、日本社会が抱えるアクチュアルな問題ばかりだ。認知症の老人、その介護、シングルマザーの厳しい生活、若い女性の(風俗産業以外に働き口がないというほどの)絶対的貧困。若い世代の結婚難。そして戦争の機運の高まり。
 そのスタッフ楽屋に、気がつくと劇団員ではない「黒子」がいる。

 ひとつ弘前劇場の作品を思い出せば、『素麺』に登場した座敷童子は地霊であり、「イエ」の守り神であり、一族の歴史の目撃者であった。しかし黒子は座敷童子のような無害な「生き物」ではない。黒子は、歌舞伎や文楽ではしばしば舞台上の登場人物の運命を、悲劇へと誘う存在である。ときに悲劇の演出家でもある。登場人物たちが悲劇へと歩み出すところから、いきなり小躍りするように動き出す「悪意」である。
 その黒子たちは、すでにわたしたちの日常の中にいる。わたしたちの日常の中にいて、壊れつつある社会の中に、決定的な破滅と戦争を呼び込もうとしている。

 ラスト、気がつけば舞台は何人もの黒子で占められている。観客がその意味に慄然としたところで、舞台は終わる。観客の喝采や祝祭的高揚を拒絶する終わりかた。
 観客は恐怖から立ち直るために少しの時間を要する。自分が観たものはあくまでも地方劇団のバックステージもののお芝居、そんな不吉なものは見えていなかった、黒子など舞台上には存在しなかったと信じたい気持ちで、劇場をあとにすることになる。

 
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# by sasakijo | 2014-07-24 12:48 | 日記

弘前劇場『アザミ』

下北沢のスズナリで、弘前劇場・長谷川孝治『アザミ』再演を観てきた。
評判は聞いていたが、素晴らしい舞台。観る前にはどうしても弘前劇場の基本的なトーン「地方の日常の描写の中に、じっくりと人間ドラマが浮かび上がる」という作品を予想していたのだけれど、完全にはずれた。

そもそも、舞台となる土地は、そこそこの規模の放送局のある都市。後述する劇中の童話の舞台が青森なのだが、弘前劇場の多くの作品のようには方言は使われない。台詞(童話のテキスト)の中の桟橋、連絡船、待合室といった言葉は、たしかにいまやファンタジーのキーワードのように聞こえる。設定の抽象性は高い。

その街にある大学の、深夜の研究室。大学の講師であり、童話作家でもある中年男が主人公。彼をめぐる危険な関係の物語だ。登場人物は男女ふたりずつの四人。

出演は、村田雄浩、、伊勢美知花、小笠原真理子、林久志。脚本・演出は長谷川孝治。

深夜の研究室、作家が苦しみつつ童話を書き進め、これと並行して登場人物の関係が可視化され、そのからみあった関係の解決がはかられる。

去年の弘前劇場のドラマ・リーディングで演じられた作品、『港立裏町図書館』(正式のタイトルはちがった思う)が、劇中で主人公が書く童話、という構造になっている。その童話の、少女、図書館、老司書、という設定が、現実の、女子学生、研究室、中年の講師(作家)、という設定に対応している。

放送局の、作家を担当する制作担当者(小笠原真理子)の台詞。
「いつ、壊れたの、あなた?」
それを言ったあとの彼女の眼差しが、怖い。

ナイフをずっと目の前に突きつけられたような、サスペンスフルな舞台だった。
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# by sasakijo | 2014-02-15 20:37
日中韓合作の舞台『祝/言』を観た。
国際交流基金と青森県立美術館の制作、東日本大震災に対してアーチストが芸術を通して向き合うことを直接の目的とした作品だという。死者たちの鎮魂のための芸能舞台、という性格も持つ。音楽と舞と詞が被災者のために捧げられるのだ。東北の被災地の演劇人が参加しているほか、中国、韓国のパフォーミング・アーチストたちも、まったく等量の重さでそれぞれの役割を受け持つ。俳優たちの多くは、二カ国語の台詞を喋る。作・演出は弘前劇場の長谷川孝治。

このような枠組みで制作された舞台であるから、ある部分は公的催事と見るべきなのだろう。規模はちがうけれども、ちょうどオリンピックの開会式のような。つまりそこでは、相互理解と友好、連帯が、ストレートに、高らかに語られる。
じっさい、このお芝居でも、ひとりの登場人物がじつに直接的な言葉で口にするのだ。
「わたしたちは日本人や中国人や韓国人である前に、ひとなのだ」
「言葉は通じなくても、ひとには魂がある。魂は、伝わる」

死者の鎮魂のための奉納舞台としては、メッセージは見事に実現している。ラスト、韓国の音楽ユニット、アンサンブル・シナウィの演奏に、舞台上も観客も盛り上がる。ある種のユートピアを、観客は舞台上に観たと確信できる。それがいずれは空間的にも時間的にも拡大してゆくだろうと、信じることができる。

しかし、この作品はもうひとつ、日中韓の男女の関係の悲劇でもある。公的催事のメッセージとして語られた理想が、お芝居では裏切られる。むしろ「ひと同士の」相互理解や結びつきの困難性のほうをこそ、観客は意識させられるのだ。

その日、三月十一日の午後、東北のとあるホテルで、祝言がとり行われようとしている。新郎は日本人。大学の教員だ。新婦は韓国人。新郎の大学の学生である。歳の差のあるカップル。結婚式には、新郎と同じ研究室で働く中国人女性教員(役名はモンヤ、上海在住の女優・李丹が演じる)も招待されている。彼女の年齢は新郎に近いか同年代。新婦は彼女の直接の教え子である。

祝言当日までに、観客はかつて新郎とモンヤとのあいだに、同僚意識を超えた関係があったことを知らされている(どのような深さでかは、はっきりとは語られない。でも、ふたりとも大人なのだ)。しかし新郎は若い韓国人女性を配偶者に選び、モンヤには結婚式立ち会い人を頼む。モンヤは自分の新郎への想いを抑え、なんとかその役割を果たそうとする。

ホテルに新郎新婦両家の面々が集まり、友人たちもやってくる。ほどなく民族を超えてふたつのファミリーがつながり、その周囲のひとびともまた新しい関係を築いてゆくだろうという予感。望ましき絆が生まれることへの期待に、出席者たちは高揚する。ひとりモンヤだけは、その場に満ちた幸福感に耐えられず、忘れ物をしたとして消える。

ジャム・セッションが始まる。津軽三味線とシナウィとの演奏に会場は盛り上がる。ここで前述の台詞。新郎の父親の感慨だ。「言葉が通じなくても、魂は、伝わる」。直後に、大地震と津波がホテルを襲う。結婚式の関係者のほとんどが死ぬ。

民族を超えたふたつの家族の結合は、成就しなかった。新郎の父親のナイーブな夢は打ち砕かれた。新郎はモンヤの想いをついに知ることもなく、彼女がその祝言の場から消えたことさえ気づかないままに死んだ。「魂」は伝わらなかったのだ。

震災さえなければ、とは観客は感じない。新郎は、そしてその祝言は、ひとりの女性をすでに打ち砕いていた。モンヤの想いを知る観客は、そのあとにきた天災を、犠牲者の数で比較してより不条理だと言うことはできない。

ラスト、登場人物たちのほとんどは白い衣装で登場する。白い衣装は、彼ら彼女らが死者として認識され、ある意味では罪を浄化された存在となったことの象徴である。しかし、モンヤだけは黒い服。彼女は冒頭から(震災から二年八カ月後、という設定だ)ずっと喪服を想わせる服のままだった。

生き残ったことの呵責が彼女をさいなんでいる。また、「想いがついに伝わらなかったこと」を、まだ受け入れることができていない。

いや、震災と津波の以前に、彼女はすでにうちのめされ、絶望していた。愛しているひとのそばからみずからを消すほどに。被災地で死者とも対話する彼女は、もしかすると認識されなかった死者、魂を鎮められていない死者であるのかもしれない。カーテンコールとも言えるそのラストでも、彼女だけは、晴れやかな笑みを見せることなく、黒い服でそこに立つのだ……。

三カ国合作の妙味が生きた素晴らしい舞台だった。

ひとつ、袴姿の男性が舞う日本舞踊だけは、どうにも違和感があった。ほかのパフォーミング・アーツが(音楽も、ダンスも、演技も)、他のパフォーマーと連携し、あるいは触発しあって観客を惹きつけていたのに、このひとの踊りは彼ひとりで完結していたからだろうか。あの舞踊は、この舞台の表のメッセージからも遠かった。
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# by sasakijo | 2014-01-14 17:18 | 日記

弘前劇場『素麺』

弘前劇場『素麺』、その再演を観た。
12月7日夜公演、札幌コンカリーニョは満席。観客の多くは初演も観ているひとたちと見えた。

311を直接の題材にした舞台作品。
長谷川孝治が、津波の被害当事者を登場人物において提示するのは、このような問いだ。
「311の被災は、耐え忍び、やり過ごしてやるべき仮の事態、あるいはいつかは覚める悪夢なのか、それとも痛苦の想いで受け入れねばならぬ新しい現実なのか」

自明のこと、と答えることはできない。悪夢であってほしいという願いは、被災地に広く深く沈潜している。ましてや初演時の一年前であれば。

青森の旧家の三人姉妹が主な登場人物。次女は母親の故郷へ両親をともなってドライブ旅行に出ていたとき津波に遭い、両親を失う。三人で素麺を食べようとしていた矢先の被災だった。それ以降彼女は生き残った自分を罰するかのように、被災地でのボランティア活動に打ち込んでいる。周囲が彼女の健康を不安視するほどに。

姉妹にとって叔父にあたる中年男性も、被災地から青森に移って、臨時雇いの仕事についている。被災のことをほとんど語らないこの叔父は、あえて軽薄に振る舞うことで、衝撃と悲しみとに耐えているようにも見える。

その姉妹の家は、蔵があるほどの広い屋敷だ。座敷童も住み着いているが、蔵の改修が始まったことで、その家は居心地が悪くなった。座敷童はべつの家に移るしかなくなったと感じてきている。しかし東北でも蔵があるほどの家は少なくなっている。移ることには迷いがある。

ここに、二十年も下宿している市役所職員や、蔵の改修工事を引き受けている大工、鳶職たちが加わり、弘前劇場的な日常が描かれる。じっさいのところ、津波の直接の被害者・次女が登場するのは、お芝居もかなり進行してからである。それまでテーマは前景化してこない。

長谷川孝治は、これまでも食事の場を、共感や和解、共同性の再構築の象徴としてじつに効果的に使ってきた。『檸檬/蜜柑』の鍋焼きうどんや、『アグリカルチャー』のカレーライスが印象的であった。この作品では、タイトルにある「素麺」がその役割を受け持つ。しかし次女にとっては、それは残酷すぎる喪失の象徴である。被災を忘れて食することは難しい。

このタイトルの舞台であれば、「みなが卓を囲んで素麺を食べる」場面は、本来なら大団円に置かれるはずである。しかしじっさいはラストの少し前に、そこだけ非現実のように演出される。観客は誰もが(とくに次女が)屈託なくそれを食べるに至ったとは受け取ることができない。彼女の傷はそれほどに重い。

しかしラスト、次女と叔父は、それまでの野暮ったい(労働着としての) セーターから、アーガイルのセーターに着替えて登場する。アーガイル模様はこの場合「お洒落の記号」と読める。ふたりが社交生活への復帰も自分に許すまでに立ち直ったということなのだろう。

また、この家の住人たちの「その後」を見つめてきた座敷童も逡巡を振り切り、三陸方面にべつの家を探しに出る。「仮設(住宅)でもいい」と、古い大きな屋敷へのこだわりを捨てて。

叔父も、被災地に帰ることを決めている。「仮設に戻る」と。

ここで「仮設住宅」(被災に直接的つながる時空間)は、一時的、臨時的なものではなく、「新しい現実」となったことが示される。この現実を受け入れることからしか、被災家族の再生はない。被災者が立ち直ることはできない。

あくまでも弘前劇場的でありながら、かなり厳しい認識をはらんだ舞台だった。
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# by sasakijo | 2013-12-12 09:07 | 日記
劇団・千年王國の『ローザ・ルクセンブルク』を観た。作・演出は橋口幸絵。

 観る前、わたしよりふた回りも若い橋口さんが、ローザ・ルクセンブルクを取り上げるというのが意外だった。ローザは非業の死をとげた社会主義革命家であり、近代史好きには知られていても、けっしてポピュラーな人物ではない。最近の女性にファンが多い歴史上の人物とも聞いたことはなかった。

 あるいは橋口さんは、彼女の生き方にフェミニズムのひとつのモデルを見たのかとも予測していったのだけれど、はずれた。いや、その要素もあるけれど、これはストレートな革命のメッセージについての舞台である。きわめて今日的な問題意識に裏打ちされた政治劇である。 面白かった!

 ローザ・ルクセンブルクを四人の女優さんがリレーのように交替で演じてゆく。最初その演出意図がつかめなかったが、三人目の女優さんに代わったところで、これはひとつの肉体、ひとつの固有名詞の物語ではないとわかった。ローザ・ルクセンブルクは、平和と自由を希求する女性一般の象徴である。彼女は世界中のどこにでもいる。どの時代にもいる。五百年前のローザが出てきて、百年前のローザも出てくる。百年後のローザも登場する。

「百年後のローザ」(ローザ・ルクセンブルクの没年は1919年だ)という台詞が出てきたとき、ローザの悲痛な叫びは311に直接つながるメッセージとわかる。この作品は、311後の日本人が、百年前のローザの声に耳を傾けようとする試みである。それは同時に(アナルコ・サンジカリズム的社会主義者と評価されているローザをわざわざ取り上げる以上)、帝国主義とスターリニズムに替わっていまや地上の大半を覆うグローバル資本主義への、「ノン」の意思表示でもある。

 千年王國の舞台を観るのは二度目なのだけど、踊りとエスニック風の音楽(今回は馬頭琴が中心)の使い方がじつ巧みだ。とくにロシア革命を表現する群舞は圧巻。また、ワルシャワ労働歌の大合唱には、鼻水をすすらねばならなかった(そういう世代さ)。

 わたしは1991年にベルリンで、ローザとリープクネヒトの遺体遺棄現場という場所を訪ねたことがある。当時のベルリンの旅行案内には記述があり、現地には案内板もあった。たしか旧日本大使館跡から徒歩で行けた距離の運河畔。ところがローザの遺体をめぐっては最近、よくわからない情報が出てきているのだね。遺体は当時は本人のものとは確認されていなかったのか。
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# by sasakijo | 2013-11-24 17:26 | 日記

今年の二紀展と独立展

 先月は新国立美術館で、二紀展と独立展を観てきた。このときのことを、あまり時間がたたないうちに。

 というのも、先日とある理系の文化人がツイッターで、やはり新国立美術館を話題にしていたからだ。彼は自分が観た『アメリカン・ポップ・アート展』を絶賛し、片一方で同時に開催されていた公募展をその創造性という視点から嘲笑していた(時期を考えれば、このとき開催されていたのは新制作展と行動展だ!)。

 しかしわたしに言わせれば、美術館の企画展(現存作家のものならともかく)というのは、時間と権威による、評価の定まった作品のパッケージである。音楽で言えば「名曲コンピレーションCD」だ。観る意味がないとは言わないが、美術史というフィルターを通しての鑑賞にならざるを得ない。

 これに対して公募展、美術団体展は、ライブである。もちろんこうした団体展もピンからキリまであるし、作品も玉石混淆だ。美術団体の存在自体にも、先日の日展・書部門のスキャンダルで露顕したような、議論すべき部分がある。それを承知で言うが、それでもアートの「現在」は、企画展の側ではなく、公募展、団体展の側にある。企画展を絶賛し(「アメリカン・ポップ・アートだって、50年前の最先端でしかない)、公募展、 団体展を嘲笑することは、自分にはアートを観る目がないと言っているに等しい。

 その公募展・団体展で、いまわたしが気になるのは、311 を同時代のアーチストはどう受けとめたかという点だ。現代のアメリカ文学を読むときに、その作者の911を観る視点を考えないわけにはいかないのと同様だ。

 もちろん311とは無関係に独自世界を描き続けるアーチストがいてもいいが、しかしその衝撃を内面化、主題化したアーチストも少なからずいる。こうしたアーチストが311をどう表現しているのか、同時代人としてはとても気になる。

 たとえば伊藤光悦は、ここ十年近く、写実の技法でもっぱら「終末」をテーマに描いてきた。砂漠の中の廃墟となった都市、砂漠に不時着した大型旅客機の残骸、あるいはなぜか砂漠に打ち上げられた巨大な廃船。高度な技術文明の崩壊後をテーマとしてきた。とくにその廃船のイメージは、311の多くの映像を「既視感がある」と感じさせるほどに予見的であった。

 去年、伊藤光悦はおそらく311以前からかかっていたであろう同じテーマの作品を出展していたが、今年は画題を一変させた。これまでのように砂漠の廃船を描けば、その終末イメージがあまりにも直接的であり、通俗、凡庸と見えたことは間違いないはずだから。

 伊藤光悦は今年、静かな港の情景を描いて出展したのだ。日没も近い時刻、小さな漁港の防潮堤で、ひとが釣り糸を垂れ、親子が遠くを眺めている。水平線近くに月が上がっているから、東に面した漁港であるとわかる。釣り人の影がくっきりと防潮堤の壁に映っている。平和で穏やかな日本の日常的な風景。ふと気づくと、その防潮堤には、実体がないのに、三人の人影も描かれている。いるはずのひとが、そこにはいないのだ。右手から伸びる防潮堤の先は、倒壊して海に沈みこんでいるようにも見える。一瞬にして、描かれているものの意味が反転する。観る者はそこで慄然とする。

 つまりこれは、大津波の後の漁港の風景なのだ。べつの言い方をすれば、その場から失われたものについての風景画。見えないもののほうを主題にした作品である。

 また同じ二紀会の遠藤彰子は、エッシャーふうの奇妙な都市(あるいは施設)と、そこに生きるひとびとを描き続けてきた作家だ。その情景はどれもどこかノスタルジックで、郷愁を誘うものだった。しかし、311後は、その世界が崩壊してゆく恐怖こそが主題となっている。昨年彼女の講演を聞いたが、そこで紹介された新作のスライドでは、海から上がってきたモンスター(巨大なタコのように見える)が、彼女の世界を襲っていた。今年の二紀展出展作では、彼女の都市の中心部で火災が起こり、ひとびとは逃げまどっている。津波と、福島第一原発が、懐かしく平和なものであったはずの彼女の主題を、浸食しているのだ。

 独立展のほうでは、二紀展ほどには311を直接の主題とした作品は少なかったが。それでも二紀展、独立展ともにいくつか、方舟のイメージを描いたものがあったことには、やはり「311後」を感じないわけにはいかない。
 どちらもいつにも増して濃密な団体展であったという印象を受ける。わたしは双方を二度ずつ観た。
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# by sasakijo | 2013-11-16 16:04 | 日記