ここは佐々木譲が開設している備忘録ブログです。日々の暮らしと、本、映画について書いています。


by sasakijo

今年の二紀展と独立展

 先月は新国立美術館で、二紀展と独立展を観てきた。このときのことを、あまり時間がたたないうちに。

 というのも、先日とある理系の文化人がツイッターで、やはり新国立美術館を話題にしていたからだ。彼は自分が観た『アメリカン・ポップ・アート展』を絶賛し、片一方で同時に開催されていた公募展をその創造性という視点から嘲笑していた(時期を考えれば、このとき開催されていたのは新制作展と行動展だ!)。

 しかしわたしに言わせれば、美術館の企画展(現存作家のものならともかく)というのは、時間と権威による、評価の定まった作品のパッケージである。音楽で言えば「名曲コンピレーションCD」だ。観る意味がないとは言わないが、美術史というフィルターを通しての鑑賞にならざるを得ない。

 これに対して公募展、美術団体展は、ライブである。もちろんこうした団体展もピンからキリまであるし、作品も玉石混淆だ。美術団体の存在自体にも、先日の日展・書部門のスキャンダルで露顕したような、議論すべき部分がある。それを承知で言うが、それでもアートの「現在」は、企画展の側ではなく、公募展、団体展の側にある。企画展を絶賛し(「アメリカン・ポップ・アートだって、50年前の最先端でしかない)、公募展、 団体展を嘲笑することは、自分にはアートを観る目がないと言っているに等しい。

 その公募展・団体展で、いまわたしが気になるのは、311 を同時代のアーチストはどう受けとめたかという点だ。現代のアメリカ文学を読むときに、その作者の911を観る視点を考えないわけにはいかないのと同様だ。

 もちろん311とは無関係に独自世界を描き続けるアーチストがいてもいいが、しかしその衝撃を内面化、主題化したアーチストも少なからずいる。こうしたアーチストが311をどう表現しているのか、同時代人としてはとても気になる。

 たとえば伊藤光悦は、ここ十年近く、写実の技法でもっぱら「終末」をテーマに描いてきた。砂漠の中の廃墟となった都市、砂漠に不時着した大型旅客機の残骸、あるいはなぜか砂漠に打ち上げられた巨大な廃船。高度な技術文明の崩壊後をテーマとしてきた。とくにその廃船のイメージは、311の多くの映像を「既視感がある」と感じさせるほどに予見的であった。

 去年、伊藤光悦はおそらく311以前からかかっていたであろう同じテーマの作品を出展していたが、今年は画題を一変させた。これまでのように砂漠の廃船を描けば、その終末イメージがあまりにも直接的であり、通俗、凡庸と見えたことは間違いないはずだから。

 伊藤光悦は今年、静かな港の情景を描いて出展したのだ。日没も近い時刻、小さな漁港の防潮堤で、ひとが釣り糸を垂れ、親子が遠くを眺めている。水平線近くに月が上がっているから、東に面した漁港であるとわかる。釣り人の影がくっきりと防潮堤の壁に映っている。平和で穏やかな日本の日常的な風景。ふと気づくと、その防潮堤には、実体がないのに、三人の人影も描かれている。いるはずのひとが、そこにはいないのだ。右手から伸びる防潮堤の先は、倒壊して海に沈みこんでいるようにも見える。一瞬にして、描かれているものの意味が反転する。観る者はそこで慄然とする。

 つまりこれは、大津波の後の漁港の風景なのだ。べつの言い方をすれば、その場から失われたものについての風景画。見えないもののほうを主題にした作品である。

 また同じ二紀会の遠藤彰子は、エッシャーふうの奇妙な都市(あるいは施設)と、そこに生きるひとびとを描き続けてきた作家だ。その情景はどれもどこかノスタルジックで、郷愁を誘うものだった。しかし、311後は、その世界が崩壊してゆく恐怖こそが主題となっている。昨年彼女の講演を聞いたが、そこで紹介された新作のスライドでは、海から上がってきたモンスター(巨大なタコのように見える)が、彼女の世界を襲っていた。今年の二紀展出展作では、彼女の都市の中心部で火災が起こり、ひとびとは逃げまどっている。津波と、福島第一原発が、懐かしく平和なものであったはずの彼女の主題を、浸食しているのだ。

 独立展のほうでは、二紀展ほどには311を直接の主題とした作品は少なかったが。それでも二紀展、独立展ともにいくつか、方舟のイメージを描いたものがあったことには、やはり「311後」を感じないわけにはいかない。
 どちらもいつにも増して濃密な団体展であったという印象を受ける。わたしは双方を二度ずつ観た。
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# by sasakijo | 2013-11-16 16:04 | 日記
札幌座『霜月小夜曲』((ノヴェンバー・セレナーデ)。作・演出・音楽は斉藤歩。

 二年前に初演された『霜月小夜曲』のうれしい再演。札幌座のレパートリー演目に加わった名作をまた観てきた。

 北海道・宗谷地方の農村が舞台。高校時代、演劇少女だった三人の女性が、二十五年ぶりに再会する。ひとりは高校の教諭となって道内各地を転勤する人生。もうひとりは国内はもとより中東から南米までを流転した。
 ひとりは農家の青年と結婚して地元で生きた。その彼女の夫となった同級生の不可解な失踪事件と死が、三人の関係に影を落とす。
 三人を演じるのは、宮田圭子、林千賀子、吉田直子。劇団の創立メンバーだという。劇中に流れた二十五年という時間は、彼女たちが女優として生きた時間にも重なるのだろう。

 斉藤歩は、この作品では徹底して「地方」のありようを凝視する。北海道の農村の現在を見つめる。北海道の郡部に生きるひとびとの出自と、生きかたの根拠を問う。
 重要な小道具として使われているものは「豆」だ。ラスト近くで、ハイブリッドの豆の収穫が語られる。移民たちの子孫同士の結合によるあらたな「種」の誕生の暗喩なのだろうか。大量流通は不可能で、商業主義にもなじまない品種。しかし遠くからの遺伝子を受け継ぎ、新天地の痩せた土壌と過酷な気候にも耐えて生育してきた作物。その思いがけない交配種、道産子の新世代。

 ラスト、主人公三人がチェーホフ『三人姉妹』のそれぞれの台詞を引き受けて語る。時間は彼女たちに、その台詞をすっかり内面化させた。台詞は彼女たち自身の肉声となった。
 正直言うと、初演のときよりも今回のほうが、この部分に揺さぶられた。二度目なので、主人公三人への共感がより深くなったせいだろう。
 作品のテーマを簡潔な言葉に託した劇中歌『霜月小夜曲』も印象的、効果的だ。斉藤歩のオリジナル。
 
 今年の「札幌演劇シーズン」開幕作品だが、このあと北海道各地でも公演されるほか、東京公演もある。東京の観客には、これだけ「地域性」を強調した作品はどう受け取られるのだろう。
http://www.h-paf.ne.jp/sapporoza/schedule.html
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# by sasakijo | 2013-07-21 09:43 | 日記

弘前劇場『最後の授業』

弘前劇場の新作『最後の授業』を観た。

 3.11を題材にした、ストレートなメッセージのある作品。長谷川孝治の作品には珍しくも感じられたので、観終わったあとにいくつか長谷川孝治に確認してしまった。

 前作『素麺』も同じように3.11を題材にしていたというが、わたしは観ていない。『最後の授業』はこれと較べてペシミステックな印象が濃い、というのは、前作も観ているひとの言葉だ。

 たしかにこの作品の基調をなしているのは、「日本はもう終わる」あるいは「すでに終わってしまったのではないか」という苦い認識だ。夏休み前の私立高校の職員室の日常に、その認識がときおり鋭い亀裂のように走る。日常と見えているもののいくつかも、すでに終わっている。

 養護教諭役の小笠原真理子が、妊娠した姿で登場する。もう臨月。彼女は結婚しているのか、夫はどんな人物なのか、説明されないままに舞台は進む。福島、がキーワードであることが、ラスト近くになってわかる。小笠原真理子の妊娠をめぐる衝撃的な事実。その妊娠を祝福してよいのかどうかに、観客はとまどう。

 ラストは、窓の外にぎらつく真夏の光。蝉が鳴いている。麦わら帽子をかぶった教諭ふたりの、また日常的な会話。窓の外の光は、太陽光にしては強すぎるように思える。蝉の声。真夏。いやおうなく連想するできるものがある。やがてその光は強さを失い、窓の外はたそがれる。

 弘前劇場らしい台詞の応酬を楽しみつつ、重い問いかけに自分の認識を再確認する作品。
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# by sasakijo | 2013-07-14 12:47
シアターzooで、札幌座(TPSあらため)の新作公演『ブレーメンの自由』を見てきた。演出は弦巻楽団の弦巻啓太。

斉藤歩演出ではない札幌座って、どんなものだろうとかなり不安を感じつつ席に着いたのだった。自分に合うと感じる劇団や演出家にひとつ出会うために、これまでどれだけの「はずれとの遭遇」が必要だったか。それを考えたら、この不安にも理解をもらえるだろう。

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの戯曲の舞台化。弦巻啓太は、この作品を、観客の感情移入を徹底的に拒絶するように演出する。俳優さんたちも、翻訳調の日本語の棒読みと取れる台詞回し。かなり意識的な「でくのぼう」のようなお芝居。それでも緊張に目が離せなくなる。

演出家の意図は、情念抜きに台詞の(言葉の)意味だけを伝えようということなのだろう。おかげで、ゲーシェという19世紀初頭のドイツ人女性の犯罪の様相が、普遍性のある「女性人権活動家の悲劇」として昇華されている。

札幌座のファンにはどうしても先生の役柄イメージの強い(わたしだけの偏見か?)宮田圭子さんが、ある意味のラディカル・フェミニストを出ずっぱりで演じる。その孤高な闘いぶりの恐ろしいまでの美しさ。観客の共感を拒む演技だけれども、ときおり見せる激情に、観客は戦慄する。主人公の絶望の深さを知る。

いやはや、自分の好みとは全然ちがうテイストのお芝居だったけれども、楽しんだ。しばらくひとり、バーでお酒を飲んで、気持ちを鎮めて帰ってきた。
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# by sasakijo | 2013-06-30 16:24 | 日記
2012年11月6日(火)から16日(金)まで、東京両国のシアターΧ(カイ)で、わたしの原作による舞台を3作集中公演します。全体のタイトルは『佐々木譲の世界 夜と弾丸』
わたしがメンバーである演劇制作ユニット、グループ虎と、現代制作舎によるプロデュース公演です。

上演作品は、
『新宿のありふれた夜』(角川文庫)
『笑う警官』(角川春樹事務所ハルキ文庫)
『荒木町ラプソディ』(『地層捜査』文藝春秋)
の3作。

これまでグループ虎公演でおなじみの俳優さんたちはもちろん、あらたに出演を快諾くださった俳優さんたちも、このいささか冒険的な公演に挑みます。

出演(50音順、敬称略)
天野舞衣子 石井ひとみ 上田ゆう子 絵理子 大槻修治 小河原真稲 斧原ゆう子 小幡美佳 香川耕二 風間舞子 梶雅人 川久保秀一 草薙仁 桑原なお 小金井宣夫 近藤弐吉 斉藤隆 寿大聡 白井真木 杉本茜 世理 仙波示右介 田村将志 鶴忠博 中野若葉 中村尚輝 長通克佳 西岡創 根本和史 林真之助 林千津子 林美月 樋口泰子 福森加織 藤村一成 藤田三三三 古川がん 真一涼 三月達也 盛岡弘一郎 夕貴まお 吉澤健

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チケット問い合わせは
現代制作舎
電話03-3482-3383
fax.03-3482-3387
e-mail:m08050999789@ezweb.ne.jp

前売り自由席4,500円指定席4,800円
2本自由席7,500円指定席8,100円
3本自由席10,000円指定席10,900円
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# by sasakijo | 2012-09-29 19:14 | 広告
わたしの今年の重大ニュース。
順不同です。思いついたものを、おおむね時系列に。

・『婢伝五稜郭』(朝日新聞出版)刊行。単行本刊行前の昨年10月、グループ虎のプロデュース公演として、俳優座劇場で舞台化されました。

・3.11体験。その日わたしは札幌にいたけれども、いろいろな意味で。

・フィレンツェ・ロングステイ。『獅子の城塞』(小説新潮で連載)の準備で、フィレンツェのアパートメント・ホテルに4月末から5月末まで一カ月滞在。ここをベースに関係各所を取材。『密売人』の後半を書いたのも、この時期。

・小型船舶操縦免許一級取得。海洋冒険小説執筆準備の第一段階、船と海とについて体系的に学ぶべく、まずは尾道の専門学校で短期集中合宿を受け、免許を取得しました。わたしは外洋に出て行ける海の男です。

・『密売人』(角川春樹事務所)刊行。道警シリーズの第5弾。某警察本部の捜査情報漏洩と、関係した警部の自殺事件をヒントにした作品です。

・ヨーロッパ取材旅行。『獅子の城塞』取材のため、オランダ(ブレダ、ヘレブートスライス)、スペイン、ポルトガル取材。ポルトガルは今度の取材旅行が初めての国でした。

・『警官の条件』(新潮社)刊行。『警官の血』の続篇です。安城一族三代目の警察官・安城和也と、彼が「売った」先輩刑事・加賀谷仁とが再度対峙する物語。

・練習帆船あこがれで、5泊6日のセイル・トレーニングを受ける。海洋冒険小説執筆の準備、第二段階です。帆船を「身体で知る」ふたり目の日本人小説家となりました。ひとり目は小川一水氏。

・札幌大学での講演で、人生の秘密をカミングアウト。高校時代から二十歳のころにかけて、わたしは美術系クリエーター志望だったのでした。苦い断念の記憶なのですが、ようやくそのことを語れるようになりましたね。

・日本アレンスキー協会名誉会長就任。協会設立記念コンサートであいさつ。冗談で就いてしまったような名誉ポストですが、おかげでいつになく真剣に音楽を聴いた年ともなりました。

・『地層捜査』(文藝春秋、2012年2月刊行)の舞台化決定。オール読物に連載中に舞台化と決まり、かなり早い段階から制作準備に関わりました。お芝居への関わりがいっそう深くなっています。

・メインのデスクトップPCを入れ換え。Windows7環境に。わたしにとっては、やはりかなりのおおごと。

来年も、いい重大ニュースが続くことを期待して。
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# by sasakijo | 2011-12-31 00:17 | 日記
先日、函館で中島三郎助についてNHK大阪から取材を受けました。
放送予定の連絡があったので、ご案内します。

◎歴史秘話ヒストリア
 「世にも数奇なラストサムライ
  ~幕末 いつも”そこ”にいた男・中島三郎助~」
 本放送:7月6日(水)22:00~22:43 NHK総合
 再放送:7月27日(水)16:05~16:48 NHK総合

※再放送については、国会中継などにぶつかることが多い時間帯でもあり、
 変更・中止になる場合もございます。あらかじめご了解下さい。
とのことです。
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# by sasakijo | 2011-06-25 07:30 | 広告

絶対安全、の虚構

午後4時の枝野長官の会見を見るかぎり、深刻な事態は脱したのかもしれない。被曝や爆発の危険の中、献身的に注水作業にかかっている現場のひとを想うと、つくづく頭が下がる。同時に、現場の犠牲によってこのデリケート過ぎるシステムを維持することの限界も思う。

いまこの時点でも原発絶対安全を主張するひとたちは、たぶん科学者・技術者の知性に対して無条件の信頼があるのだろう。しかし阪神大震災を思い出して欲しい。被災直後、関わった地震学者が、高速道路の建設計画のために想定数値を低く報告したと告白していた(その後の追及はなかったが)。

LA地震のときに視察した日本人学者たちは、高速道路の崩壊現場で「日本では絶対に起こらない」と強調していた。この映像は、阪神大震災直後、アメリカ、カナダの放送局で繰り返し流れた。日本人学者たちのレベルが嘲笑されていたのだ。

また、絶対の安全性を確保するはずのプラント設計は、施工業者によって具現化される。仕様書の指示から鉄筋を何パーセント抜くか、それを追求する業界が建設工事を請け負うのだ。

設計が目標とした耐震性も強度も、じっさいは図面上の数値に過ぎなくなる。やはり阪神大震災では、崩壊した高速道路の橋脚から、鉄筋の代わりに何が出てきたか思い出そう。


ビル建設の作業員として働いた実体験で記せば、工事途中の検査はしばしば無視される。型枠組みのあと、その検査前日に生コンクリートを打ち込み、検査省略は「手違い」として工事は進む。このとき、コンクリート打設部分を解体して一からやりなおせ、と業者に命じる検査員(あるい施工主側幹部)はいない。

なぜ建設業者が検査を逃れるか、理由は書くまでもない。

また、安全を担保するはずの厳格に定められたマニュアルが、現場ではしばしば「弾力的に運用される」ことも、東海村JCO臨界事故で、わたしたちは承知している。

なるほど、技術者たちは設計段階では「絶対安全」をクリアしたかもしれない。しかしプラントが出来上がってゆくあらゆる過程で、その技術的裏付けは骨抜きにされてゆく。稼働したあとも同様だ。結果として、設計上は起こるはずのないことが起きて、技術者たちは首をひねる。

アポロ計画では、宇宙船の部品のすべてにわたって99.9999パーセントの信頼性を確保したという。それができたのは、宇宙船がそのサイズの工業製品であったからだ。原子炉はともかく、原発プラント全体は、同じ基準での管理は不可能だ。

鎖の強度は、もっとも弱い輪の強さで決まる。巨大な原発プラントに一カ所でも、手抜き工事、もしくは施工ミスがあれば、めざした強度は持ち得なくなる。作業員が「燃料計から目を離した」という事態も、技術者たちは想定していないだろう。

ふつうの「現場の感覚」があれば、「原発は絶対安全」という主張など、虚構もしくは意図された神話に過ぎないと身体で認識できる。

そしてその虚構に寄りかかることのリスクは、火力や水力発電システムの比ではないのだ。

節電? 受け入れようじゃないか。二者択一だというなら。
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# by sasakijo | 2011-03-15 17:39 | 日記
札幌の人気劇団TPSが、代表作の3つの演目を一カ月上演するという試み。このうち『冬のソナチネ』『西線11条のアリア』を観た。

http://www.h-paf.ne.jp/ 

『西線11条のアリア』は2005年初演の名作。札幌の路面電車の停車場を舞台にしたファンタジーだ。ネタばれでも十分面白いと思うので書くが、札幌の市電というきわめて日常的な乗り物が、じつは「銀河鉄道」だったという作品。

TPSを主宰するのは、東京のメディアでも俳優として活躍する斉藤歩。音楽にも強く、劇中の音楽もオリジナルを作曲してしまう。

役者さんたちも何かしらの楽器を演奏するひとが多く、それがTPSの舞台に豊かな音楽性を与えている。『冬のソナチネ』では、札幌交響楽団のメンバーだった土田英順さんがチェロを弾く。TPSのロングラン公演は3月27日まで。


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# by sasakijo | 2011-03-11 08:54 | 日記
映画『アレクサンドリア』を観た。原題は『AGORA』、監督アレハンドロ・アメナーバル。
http://www.youtube.com/watch?v=FOrmvCuBpKQ

舞台は4世紀のエジプトのアレクサンドリア。とくに、四世紀かけて再建されたアレクサンドリア図書館で物語の多くが進行する。

主人公は、当時アレクサンドリアに実在した女性天文学者、数学者。ヒュパティア、と字幕に出る。これはギリシアふうの発音なのだろうか。音では「ヒュペイシア」。図書館の外では宗教対立が戦争レベルに達しているのに、彼女は地動説と、地球の周回軌道が楕円であることの証明に取り組み続ける。

理性と科学の象徴としての図書館と、これを無用とするひとびととの攻防戦の映画でもある。図書館支持派のわたしには、それだけでも共感度は高い。

当時のアレクサンドリアのオープンセットとCGがいい。ときどき視点が天文学的な高さに移るので、ちょうどグーグルアースの航空写真で当時の地球を眺めるような映像となる。クレジットを見ると、セットはマルタ島に作られたようだ。

歴史映画として、この作品が描くものは「古典古代の自由と明晰さの滅亡」の瞬間であり、キリスト教の伸張による「暗黒の中世」の起源である。キリスト教が人類を退歩させた、とはっきり言っているわけで、古代史もの映画としてはかなり過激なメッセージを持った作品だ。

広場(AGORA)では、キリスト教伝道者が、子供だましの「火渡りパフォーマンス」をおこなって、奴隷や貧しい人々の支持を集める。広場が、対話や議論の場から、熱狂やリンチの舞台へと変質していく様子も悲しい。

アレクサンドリア図書館襲撃のシーンでは、キリスト教徒が、書物を右手に掲げた神像を破壊し、喝采する。わたしはスペインでイエズス会創設者ロヨラの生地を訪ねたことがあるが、そこではロヨラが書物を踏みつけにしている像が崇められていた。理性と科学の否定。あの像を思い起こした。

「反知性主義」批判の映画、であり、ポピュリズムを熱く否定する作品。また、図書館映画、というジャンルでは、いずれスタンダードの一本として語られることになるだろう。

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# by sasakijo | 2011-03-06 13:08 | 日記