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弘前劇場『四人目の黒子』の感想

『四人目の黒子』弘前劇場
脚本・演出 長谷川孝治
札幌シアターZOO


 チラシで想像していた中身とは、まったく違った作品だった。
 チラシにはこうあるのだ。

「演じる」「演じない」という区別は人生においてあるだろうか。
全ての人間は、何かを演じている俳優ではないだろうか。
歌舞伎や文楽にみられる、あの「黒子」を題材に、「演じる」「演じない」を「フィクション」「ノンフィクション」に読み換えて、現実の虚構を丹念に描いていきます。

 実際の舞台は、このコピーとは離れ、黒子の意味も完全に違うものになっていた。たぶん制作過程で構想が変わり、長谷川孝治の「いま語りたいのはこのことだ」という、ある種の切迫感で作られた舞台なのだと思う。べつの言い方をすれば、長谷川孝治のカナリアとしての感受性を全面的に前に出して作られた舞台。

 ひとことでわたしの解釈を書くなら、社会の崩壊と、来たるべき戦争の恐怖についての作品だ。黒子たちは、破滅と戦争の暗喩である。わたしたちの日常の中に、それは静かに侵入し、増殖している。見えるものには、その黒子たちが見えている。

 ステージ上に設定されているのは、ある地方劇団の公演のスタッフ楽屋。数カ月前に韓国、中国公演をした、というこの劇団は、つまり弘前劇場そのものということだ。
 モニターで舞台上を観ながら、スタッフたちがごく日常的な会話を続けている。男たちの何人かは、黒子の衣装である。
 台詞にはいつもの弘前劇場的な軽みもあるが、垣間見えてくるものは、日本社会が抱えるアクチュアルな問題ばかりだ。認知症の老人、その介護、シングルマザーの厳しい生活、若い女性の(風俗産業以外に働き口がないというほどの)絶対的貧困。若い世代の結婚難。そして戦争の機運の高まり。
 そのスタッフ楽屋に、気がつくと劇団員ではない「黒子」がいる。

 ひとつ弘前劇場の作品を思い出せば、『素麺』に登場した座敷童子は地霊であり、「イエ」の守り神であり、一族の歴史の目撃者であった。しかし黒子は座敷童子のような無害な「生き物」ではない。黒子は、歌舞伎や文楽ではしばしば舞台上の登場人物の運命を、悲劇へと誘う存在である。ときに悲劇の演出家でもある。登場人物たちが悲劇へと歩み出すところから、いきなり小躍りするように動き出す「悪意」である。
 その黒子たちは、すでにわたしたちの日常の中にいる。わたしたちの日常の中にいて、壊れつつある社会の中に、決定的な破滅と戦争を呼び込もうとしている。

 ラスト、気がつけば舞台は何人もの黒子で占められている。観客がその意味に慄然としたところで、舞台は終わる。観客の喝采や祝祭的高揚を拒絶する終わりかた。
 観客は恐怖から立ち直るために少しの時間を要する。自分が観たものはあくまでも地方劇団のバックステージもののお芝居、そんな不吉なものは見えていなかった、黒子など舞台上には存在しなかったと信じたい気持ちで、劇場をあとにすることになる。

 
by sasakijo | 2014-07-24 12:48 | 日記