もう一度Google Library Project(GLP)について
わたしの所属する日本ペンクラブが、Google Library Project(GLP)について声明を出していた。4月24日付けである。事前に意見を求められてはいないので、評価作業は理事会でおこなわれているのだろう。あるいは特別の分科会なのかな。
(引用ここから)
●日本ペンクラブ声明「グーグル・ブック検索訴訟の和解案について」
日本ペンクラブは表現者の団体として、グーグル・ブック検索訴訟(書籍のスキャニングとネット公開に関する米国内の対グーグル訴訟)の和解案について、評価作業を継続中であるが、現時点において以下の三つの観点から見解を明らかにし、デジタル時代の著作権処理のあり方について警告する。
第一は、著作権上の問題である。グーグルの書籍デジタル化に関する一連の行為は、日本の著作権上明白な複製権違反であるにもかかわらず、それを容認する形になる。また、米国内ルールである「フェアユース(公正利用)」条項を「世界基準」として事実上容認することになる点で、大きな問題を孕む。
第二は、手続き上の問題である。申請しなければ権利が保護されないという「オプト・アウト(離脱)」方式を採用することは、権利者の立場を弱体化するおそれが多分にあり、これは著作権法の世界ルールであるベルヌ条約に抵触する可能性がある。このような大きな問題を抱えるルール変更を、一方的かつ不十分な情報開示のもとで行うことは、表現者の立場を軽視するものではないか。ネット上の閲覧が許可される絶版本の認定も、もっぱらグーグルもしくは米国内の団体に委ねられることになり、日本国内の表現者(出版社)の意思が軽視される可能性があるだろう。
第三は、情報流通独占の問題である。グーグルという私企業の先行的行為が容認されることで、この分野における事実上の独占状態を生じ、情報流通の多様性を損なう危険性がある。一私企業によるデータベース化は、企業の方針あるいは存在に左右されるものであって、権利者の立場が極めて不確定なものになるとともに、出版文化の基盤自体も不確実なものに陥る可能性もある。さらに、グーグルの支援によって設立される権利処理のための機構である「レジストリ」によって、個人情報を含む著作権者の情報が事実上、独占的に集中管理されることには危険性が伴う。
このように大きな問題を抱えた和解案は、表現の自由と出版文化の発展に大きな影を落とすことになり、日本ペンクラブとしては安易に容認できないことを、ここに表明する。
(ここまで)
この声明への異論として、わたしの立場を書く。
「第一は、著作権上の問題である。グーグルの書籍デジタル化に関する一連の行為は、日本の著作権上明白な複製権違反であるにもかかわらず、それを容認する形になる」
最初はわたしも、この問題は各出版社が持つ著作権の優先的二次利用権の侵害ではないかと考えていた。しかし、わたしの関係する出版社で、企業としてGoogleに対して法的措置を取るとか、法的に対抗するという方針のところはひとつもない。「明白な違反」とは言い切れない、ということではないのか。
作家個人が、表示使用のための著作のスキャンを一切認めないのであれば、5月5日までに申し立て可能である。いったん和解に参加した上で、個別の作品ごとにスキャンを拒否することもできる。いくつかの出版社は寄稿家に対して後者を勧めている。一方的に世の中の本すべてがスキャンされるわけではないのだ。複製権違反が成立するのは、スキャン拒絶を申し立てたのにスキャンされたときであろう。
「米国内ルールである「フェアユース(公正利用)」条項を「世界基準」として事実上容認することになる点で、大きな問題を孕む」
では、JASRACがやっているような、ローカル・ルールによる規制がよいのか? ファアユース概念はいまのところ、世界の文芸と活字文化にとって、ネガティブに働いているとは思えない。何か弊害が出ているだろうか。
「第二は、手続き上の問題である。申請しなければ権利が保護されないという「オプト・アウト(離脱)」方式を採用することは、権利者の立場を弱体化するおそれが多分にあり、これは著作権法の世界ルールであるベルヌ条約に抵触する可能性がある。このような大きな問題を抱えるルール変更を、一方的かつ不十分な情報開示のもとで行うことは、表現者の立場を軽視するものではないか」
ベルヌ条約の当該の条項を知らないが、でも多くの出版社の法務部門が検討した結果として、法的問題はない、という判断になったはずである。この判断をひっくり返すことが可能なだけの根拠を、我が日本ペンクラブは持っているのだろうか。
「一方的かつ不十分な情報開示」はたしかにそうだと思うが、これは日本の作家や関連業界が、世界の動きに鈍感すぎた結果だとも言えるのでないか。わたしはアメリカで訴訟がおこなわれている事実すら知らなかった。各出版社の見解が作家のもとに届いたのも、この三月から四月中旬にかけてだ。和解参加か拒否かの申し立て期限が5月5日であったのに、対応は遅すぎた。秘密でおこなわれていた訴訟でもあるまいし、この点についてはむしろわたしたちが自分たちの感度の低さを恥じるべきだ。
「ネット上の閲覧が許可される絶版本の認定も、もっぱらグーグルもしくは米国内の団体に委ねられることになり、日本国内の表現者(出版社)の意思が軽視される可能性があるだろう」
絶版本の認定は、著者にとっても難しい。事実上絶版であるのに、「品切れ」と呼ぶ商習慣もある。また、あなたの著作のうちこれらはスキャンをオーケーしてかまいませんと、絶版リストを送ってきた出版社はない。出版社は対象が絶版か生きている本かをそれほど厳密に問題にしているのだろうか?
また、この表示利用では、コピー&ペースト不可能な状態で閲覧できるだけである。プリントアウトもできない(限定された端末で、有償では可能)。その状態でなおアクセス権を買ってこのサービスを使うのは、主に研究者であろう。たとえ動いている書籍であっても、このような利用を拒むことはできないのではないか。
無料のプレビュー利用の場合も、とくに問題があるとは思えない。とくに小説の場合は、ひとはネットで一部(最大20%)を読んで興味を惹かれたら、ふつうは本に手を伸ばすだろう(20%読まれて、それ以上読む価値なしと判断されたなら、それはそれでしかたがない)。そのひとは、最初は図書館に行き、なければ書店、古書店を探す。ネット上のデータに触れて、そこまで本を追いかけてくれる読者が生まれたら、それは作家にも出版社にも、むしろ喜ばしいことと言うべきである。
「第三は、情報流通独占の問題である。グーグルという私企業の先行的行為が容認されることで、この分野における事実上の独占状態を生じ、情報流通の多様性を損なう危険性がある」
JASRACを問題にするとき、この指摘は有効と思う。
しかし、Googleが世界で最初に思いついてそこに資本を投下しようとしているのだ。日本の国立国会図書館も、あるいはどこか別の機関も、それが情報流通に(あるいは活字文化に)必要と信じるなら、少なくとも日本語で刊行された本について始めておけばよかっただけのことである。もしGoogleにデータを独占させてはならないという危機意識がほんとうにあるなら、いまから対抗できるだけの機関を設置するなり、あるいはプロジェクトを始動させればよいのではないか(和解は、Googleが持つのは非独占的権利としているのだ)。Googleはある期間たしかに先行者利益を受けるだろうが、活字文化にとってとくにそれが困った事態とも思わない。
「さらに、グーグルの支援によって設立される権利処理のための機構である「レジストリ」によって、個人情報を含む著作権者の情報が事実上、独占的に集中管理されることには危険性が伴う」
「事実上、独占的に集中管理される」という部分がどういうことを指しているのかわからない。Googleとの権利関係処理のためにその独自機構に情報提供が必要だということであれば、出すしかない。弁護士を頼むことと同じことではないのか?
つまり全体で言って、Googleのこのプロジェクトは、作家にとってけっして不利益となる計画ではない。むしろ文芸と活字文化をいっそう活性化してくれるものと思える。わたしは日本ペンクラブの声明には同意できない。わたしは和解拒絶の申し立てを行わない。
(引用ここから)
●日本ペンクラブ声明「グーグル・ブック検索訴訟の和解案について」
日本ペンクラブは表現者の団体として、グーグル・ブック検索訴訟(書籍のスキャニングとネット公開に関する米国内の対グーグル訴訟)の和解案について、評価作業を継続中であるが、現時点において以下の三つの観点から見解を明らかにし、デジタル時代の著作権処理のあり方について警告する。
第一は、著作権上の問題である。グーグルの書籍デジタル化に関する一連の行為は、日本の著作権上明白な複製権違反であるにもかかわらず、それを容認する形になる。また、米国内ルールである「フェアユース(公正利用)」条項を「世界基準」として事実上容認することになる点で、大きな問題を孕む。
第二は、手続き上の問題である。申請しなければ権利が保護されないという「オプト・アウト(離脱)」方式を採用することは、権利者の立場を弱体化するおそれが多分にあり、これは著作権法の世界ルールであるベルヌ条約に抵触する可能性がある。このような大きな問題を抱えるルール変更を、一方的かつ不十分な情報開示のもとで行うことは、表現者の立場を軽視するものではないか。ネット上の閲覧が許可される絶版本の認定も、もっぱらグーグルもしくは米国内の団体に委ねられることになり、日本国内の表現者(出版社)の意思が軽視される可能性があるだろう。
第三は、情報流通独占の問題である。グーグルという私企業の先行的行為が容認されることで、この分野における事実上の独占状態を生じ、情報流通の多様性を損なう危険性がある。一私企業によるデータベース化は、企業の方針あるいは存在に左右されるものであって、権利者の立場が極めて不確定なものになるとともに、出版文化の基盤自体も不確実なものに陥る可能性もある。さらに、グーグルの支援によって設立される権利処理のための機構である「レジストリ」によって、個人情報を含む著作権者の情報が事実上、独占的に集中管理されることには危険性が伴う。
このように大きな問題を抱えた和解案は、表現の自由と出版文化の発展に大きな影を落とすことになり、日本ペンクラブとしては安易に容認できないことを、ここに表明する。
(ここまで)
この声明への異論として、わたしの立場を書く。
「第一は、著作権上の問題である。グーグルの書籍デジタル化に関する一連の行為は、日本の著作権上明白な複製権違反であるにもかかわらず、それを容認する形になる」
最初はわたしも、この問題は各出版社が持つ著作権の優先的二次利用権の侵害ではないかと考えていた。しかし、わたしの関係する出版社で、企業としてGoogleに対して法的措置を取るとか、法的に対抗するという方針のところはひとつもない。「明白な違反」とは言い切れない、ということではないのか。
作家個人が、表示使用のための著作のスキャンを一切認めないのであれば、5月5日までに申し立て可能である。いったん和解に参加した上で、個別の作品ごとにスキャンを拒否することもできる。いくつかの出版社は寄稿家に対して後者を勧めている。一方的に世の中の本すべてがスキャンされるわけではないのだ。複製権違反が成立するのは、スキャン拒絶を申し立てたのにスキャンされたときであろう。
「米国内ルールである「フェアユース(公正利用)」条項を「世界基準」として事実上容認することになる点で、大きな問題を孕む」
では、JASRACがやっているような、ローカル・ルールによる規制がよいのか? ファアユース概念はいまのところ、世界の文芸と活字文化にとって、ネガティブに働いているとは思えない。何か弊害が出ているだろうか。
「第二は、手続き上の問題である。申請しなければ権利が保護されないという「オプト・アウト(離脱)」方式を採用することは、権利者の立場を弱体化するおそれが多分にあり、これは著作権法の世界ルールであるベルヌ条約に抵触する可能性がある。このような大きな問題を抱えるルール変更を、一方的かつ不十分な情報開示のもとで行うことは、表現者の立場を軽視するものではないか」
ベルヌ条約の当該の条項を知らないが、でも多くの出版社の法務部門が検討した結果として、法的問題はない、という判断になったはずである。この判断をひっくり返すことが可能なだけの根拠を、我が日本ペンクラブは持っているのだろうか。
「一方的かつ不十分な情報開示」はたしかにそうだと思うが、これは日本の作家や関連業界が、世界の動きに鈍感すぎた結果だとも言えるのでないか。わたしはアメリカで訴訟がおこなわれている事実すら知らなかった。各出版社の見解が作家のもとに届いたのも、この三月から四月中旬にかけてだ。和解参加か拒否かの申し立て期限が5月5日であったのに、対応は遅すぎた。秘密でおこなわれていた訴訟でもあるまいし、この点についてはむしろわたしたちが自分たちの感度の低さを恥じるべきだ。
「ネット上の閲覧が許可される絶版本の認定も、もっぱらグーグルもしくは米国内の団体に委ねられることになり、日本国内の表現者(出版社)の意思が軽視される可能性があるだろう」
絶版本の認定は、著者にとっても難しい。事実上絶版であるのに、「品切れ」と呼ぶ商習慣もある。また、あなたの著作のうちこれらはスキャンをオーケーしてかまいませんと、絶版リストを送ってきた出版社はない。出版社は対象が絶版か生きている本かをそれほど厳密に問題にしているのだろうか?
また、この表示利用では、コピー&ペースト不可能な状態で閲覧できるだけである。プリントアウトもできない(限定された端末で、有償では可能)。その状態でなおアクセス権を買ってこのサービスを使うのは、主に研究者であろう。たとえ動いている書籍であっても、このような利用を拒むことはできないのではないか。
無料のプレビュー利用の場合も、とくに問題があるとは思えない。とくに小説の場合は、ひとはネットで一部(最大20%)を読んで興味を惹かれたら、ふつうは本に手を伸ばすだろう(20%読まれて、それ以上読む価値なしと判断されたなら、それはそれでしかたがない)。そのひとは、最初は図書館に行き、なければ書店、古書店を探す。ネット上のデータに触れて、そこまで本を追いかけてくれる読者が生まれたら、それは作家にも出版社にも、むしろ喜ばしいことと言うべきである。
「第三は、情報流通独占の問題である。グーグルという私企業の先行的行為が容認されることで、この分野における事実上の独占状態を生じ、情報流通の多様性を損なう危険性がある」
JASRACを問題にするとき、この指摘は有効と思う。
しかし、Googleが世界で最初に思いついてそこに資本を投下しようとしているのだ。日本の国立国会図書館も、あるいはどこか別の機関も、それが情報流通に(あるいは活字文化に)必要と信じるなら、少なくとも日本語で刊行された本について始めておけばよかっただけのことである。もしGoogleにデータを独占させてはならないという危機意識がほんとうにあるなら、いまから対抗できるだけの機関を設置するなり、あるいはプロジェクトを始動させればよいのではないか(和解は、Googleが持つのは非独占的権利としているのだ)。Googleはある期間たしかに先行者利益を受けるだろうが、活字文化にとってとくにそれが困った事態とも思わない。
「さらに、グーグルの支援によって設立される権利処理のための機構である「レジストリ」によって、個人情報を含む著作権者の情報が事実上、独占的に集中管理されることには危険性が伴う」
「事実上、独占的に集中管理される」という部分がどういうことを指しているのかわからない。Googleとの権利関係処理のためにその独自機構に情報提供が必要だということであれば、出すしかない。弁護士を頼むことと同じことではないのか?
つまり全体で言って、Googleのこのプロジェクトは、作家にとってけっして不利益となる計画ではない。むしろ文芸と活字文化をいっそう活性化してくれるものと思える。わたしは日本ペンクラブの声明には同意できない。わたしは和解拒絶の申し立てを行わない。
by sasakijo
| 2009-05-02 11:49
| 日記