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佐々木譲の散歩地図

何かが終わる夏

佐々木俊尚の新書を二冊、たて続けに読んだ。
一冊は
『仕事するのにオフィスはいらない ノマドワーキングのすすめ』(光文社新書)

30年も同じ仕事を続けていると、意識化していないにせよ、仕事のノウハウについてはかなり「自分に合うもの」を発見し、身につけてしまっている。なので最近はこの手の本を読んでも、目新しいノウハウに触れることはさほど多くはなくなった。

ただ、PCの使い勝手をよくする新しいソフトや、グーグルなどの新しいサービスについては、こうした新書で教えられることが多い。本書では、いわゆるクラウドについて少し知識を増やすことができた。

著者が実践しているノマドワーキングについては、わたしには無理だ。中途半端な時間にもなんとか原稿を書けないものかと焦り、たまにそのためのガジェットも買ったりするが、一件の原稿の量がそもそもちがう。15分や30分の時間に原稿を書こうと努力するよりも、むしろ書かないと決めて本なり資料を読むのが一番。MVペンなんて、けっきょくその後出番なしだし。

ただし、半日あれば、かなりの仕事ができる。仕事場難民となった場合、これまでわたしは編集部の会議室を借りて原稿を書くということをよくやってきた。外国で公立図書館を使ったことも何度かある。でも、喫茶店ではゲラ直しがせいぜいだ。

わたしは、仕事をするにはそれなりの環境を整えよ、というタイプ。ノマドにはなれない。


もう一冊。
『2011年新聞・テレビ消滅』(文春新書)
毎日新聞がちょうど、新聞業界に500億円の政府支援を、という主張を記事として載せたところだ(主張するのは毎日新聞社の社員ではないが)。本書が書くとおりの危機が、新聞とテレビの世界では進行中なのだろう。

ただ、中国とコスト競争で負けたわけでもない。日本語という強固な参入障壁に守られた業界なのに衰退してゆくのだから、あまり同情もできないというのが本音だ。政府支援についても、カネを受け取るようになればますます新聞の官報化が進むだけだろう。

著者は、コンテンツ、コンテナ、コンベアという概念で、新聞・テレビをめぐる環境の変化を分析する。最終章では、新聞は一次情報を提供するだけのコンテンツ・プロバイダーとなるだろう、と予測。

読者にとっても、それで十分ではないか、と思う。少なくとも、そうなったところで困る読者はいない。社会も困らない(新聞のない社会は、といった反論自体が、古いメディアの驕慢である)。


わたしの場合、新聞にはいま知りたい肝心の情報がない、という不満がいつごろから大きくなっていったのだろう。インターネット以前からであることはたしかと思う。そのころは雑誌ジャーナリズムにまだ元気があって、新聞・テレビが報道しないことを雑誌が代わって報道していた。いまは、雑誌にもそれを期待できない。

大手広告主についての悪いニュースは報道しない。官庁を刺激することはない。政治家の資質を判断するための肝心の情報も隠し通す。新聞・テレビについてのこうした認識は、たぶんわたしだけのものではない。

最近の例で言えば、中川昭一の酒癖の悪さの問題。噂でこそ耳にしてきたけれど、大手マス・メディアがこれを報じたことは一度もないはずだ。なのにあのイタリアでの会見の様子が外国メディアで報じられたあと、どっとそれ以前のエピソードが紹介されるようになった。北海道の選挙民は、投票に際して判断材料となる必要な情報さえ、マス・メディアからは提供されていなかったのだ。そんなものを情報源にしてもしかたがない、という気持ちが強くなるのは当然だ。

いっぽうで、これほどの報道が必要なのか、と思える分野の記事も少なくない。とくに毎日新聞、朝日新聞の高校野球報道は、主催者だからとはいえ、バランスを欠いて多いし、大仰だ。取材のために割かれる人的ソースも、そうとうのものになるだろう。大学で政治学やジャーナリズム論を学んできた新人社員に、高校球児たちの純粋な夢、について取材して記事を書け、と命じるのも、人的資源の浪費と思う(社内の訓練システムなど、読者にはどうでもよいことだ)。

本書はとくに指摘していないが、新聞社がイベントを企画・主催して記事を作る、というビジネス・モデルももう終わったのではないか。

ともあれ、結論にさほど衝撃を受けないことがふしぎに思えるくらいの、醒めたマス・メディア論。
by sasakijo | 2009-08-25 21:11 | 日記