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ここは佐々木譲が開設している備忘録ブログです。日々の暮らしと、本、映画について書いています。


by sasakijo
昨夜は流山児事務所の『代代孫孫』を下北沢ザ・スズナリで。原作は韓国の劇作家パク・クニョン。温泉ドラゴンのシライケイタさんの脚色・演出。いわいのふ健さんはじめ、温泉ドラゴンのみなさんの出演で、グループ虎がお世話になっている近童弐吉さんも。

2013年に温泉ドラゴンの『birth』ソウルでの公演をお芝居仲間と観にいった。このとき打ち上げで、パク・クニョンさんともお酒を飲んでいる(同行した我らが女優さんにすっかり惚れ込んだ様子だったが、我らの演出家も負けじとパクさんの劇団コルモッキルの女優さんに熱心に出演を迫っていたっけ)。

韓国で上演すればこの作品はストレートな「一族の歴史」ものだけれど、シライケイタはこの原作の設定を逆転させ、台詞を完全に日本人のものに置き換えてしまった。すると、この舞台上の日本はかつて韓国の植民地であり、独立したけれども南北に分断され、ベトナム戦争にも参加した歴史を持つ、という国になる。ある種のパラレル・ワールドものという言い方もできるかもしれない。

ところが観ているうちに、この作品はパラレル・ワールドものというよりは、アクチュアルな近未来もののように見えてくる。韓国の近・現代史が、いま予想しうる日本の明日そのものではないかと思えてくるのだ。たとえばアメリカ軍後方支援で外国に派遣され精神を病んだ帰還兵の姿は、いまやけっして他人事ではない。

シライケイタ演出により、おそらくは原作者の意図を超えてヘビーな問いかけを持つことになった舞台。
流山児事務所『代代孫孫』_a0019702_1120489.jpg
# by sasakijo | 2016-06-16 11:20 | 日記

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# by sasakijo | 2015-12-31 23:59 | 連絡

グループ虎とグループK

東京にいるあいだにお芝居2本。
『それはさておき恋はくせもの二の替わり』SPACE雑遊。
作・小松幹夫、演出は高橋征男(グループ虎)。わたしの原作舞台でお世話になっている石井ひとみさん、林真之介さん、久保田芳幸さんらの出演。ダンスは島明香さん、金刺航さん。

タイトルからは中身の想像はつかなかったのだけど、老人介護、老人虐待をテーマにした、かなりシリアスかつ同時代的なお芝居。この気分のまま劇場の外に出るのはきついなと思っていたら、最後に石井ひとみさんが歌い、島明香さんと金刺さんのダンスがあって、ふっと観客は舞台の世界観から抜けることができた。

もう一本は『スタンド・バイ・ユー』銀座みゆき館劇場。
香川耕二さんのグループKの公演。作・演出は湯澤公敏さん。やはりわたしの舞台作品によく出てくれている樋口泰子さん、福森加織さんらの出演。

主題はこちらも隣接していて、身内に先立たれた者の悲しみについてのお芝居。ただし、その実際の身内の死は、劇中劇の中に昇華されて、直接に前後の悲劇が描かれることはない。最後は若い未亡人となった樋口泰子さんの微笑だけが舞台の上に残って幕、という演出。全体の雰囲気は軽演劇というか、シチュエーション・コメディです。
# by sasakijo | 2015-11-23 20:13
吉祥寺シアターで、「柿喰う客」の女体シェイクスピア・シリーズ第7弾『完熟リチャード三世』を観た。
「柿喰う客」の公演は、去年『へんてこレストラン』を初めて観て、本作が二本目。

「柿喰う客」中屋敷法仁の作品は、セリフまわしが独特だ。日本語を非日常的なリズムに載せて(たぶん作品ごとにそのリズムを違えている。いや、シェイクスピア・シリーズは統一されているのかな)、一本の作品を(百パーセントではないが)それで通す。『へんてこレストラン』は短い作品だったので、そのリズムは作品のトーンを決めた要素として心地よく耳に残ったけれど、1時間20分の本作では、やや単調、と感じたな。感情の起伏やテンションの高低を強調しない演出であるし。

チェス盤のような板が敷いてあるだけの舞台。セットなし。小道具も使わない。きわめて抽象性の高い作品。もっと言えば、ステージの「幕」さえも、「幕」を描いた書き割りなのだ(道具幕、か)。最初から虚構性が強く主張されている。

でも、シェイクスピア作品を少人数の女性だけで演じるという試みは面白かった。黒いドレスの女優さんたち七人が、出ずっぱりなのだ。

リチャード三世の安藤聖以外は何役も割り振られているのだけど、ある女優さんが別の役として初登場するたびに、べつの女優さんが「新キャラクターです」と紹介するのがおかしい。シェイクスピア作品のわかりやすいダイジェスト、としても観ることができるのではないか。

リチャード三世は、青年(少年かも)のような年齢設定になっている。醜いために疎まれて育った青年が、家族、一族に復讐してゆく屈折の物語。

わたしは『リチャード三世』が好きで、『天下城』の本能寺の変の章ではセリフを引用した。ふつう「是非もなし」と言ったことになっている織田信長の最期のセリフを、「馬を持て! 天下をくれてやる!」としたのだ。知人の英文学の教授が、「あれは『リチャード三世』ですね」と見抜いてくれた。
# by sasakijo | 2015-02-15 23:00 | 日記
『四人目の黒子』弘前劇場
脚本・演出 長谷川孝治
札幌シアターZOO


 チラシで想像していた中身とは、まったく違った作品だった。
 チラシにはこうあるのだ。

「演じる」「演じない」という区別は人生においてあるだろうか。
全ての人間は、何かを演じている俳優ではないだろうか。
歌舞伎や文楽にみられる、あの「黒子」を題材に、「演じる」「演じない」を「フィクション」「ノンフィクション」に読み換えて、現実の虚構を丹念に描いていきます。

 実際の舞台は、このコピーとは離れ、黒子の意味も完全に違うものになっていた。たぶん制作過程で構想が変わり、長谷川孝治の「いま語りたいのはこのことだ」という、ある種の切迫感で作られた舞台なのだと思う。べつの言い方をすれば、長谷川孝治のカナリアとしての感受性を全面的に前に出して作られた舞台。

 ひとことでわたしの解釈を書くなら、社会の崩壊と、来たるべき戦争の恐怖についての作品だ。黒子たちは、破滅と戦争の暗喩である。わたしたちの日常の中に、それは静かに侵入し、増殖している。見えるものには、その黒子たちが見えている。

 ステージ上に設定されているのは、ある地方劇団の公演のスタッフ楽屋。数カ月前に韓国、中国公演をした、というこの劇団は、つまり弘前劇場そのものということだ。
 モニターで舞台上を観ながら、スタッフたちがごく日常的な会話を続けている。男たちの何人かは、黒子の衣装である。
 台詞にはいつもの弘前劇場的な軽みもあるが、垣間見えてくるものは、日本社会が抱えるアクチュアルな問題ばかりだ。認知症の老人、その介護、シングルマザーの厳しい生活、若い女性の(風俗産業以外に働き口がないというほどの)絶対的貧困。若い世代の結婚難。そして戦争の機運の高まり。
 そのスタッフ楽屋に、気がつくと劇団員ではない「黒子」がいる。

 ひとつ弘前劇場の作品を思い出せば、『素麺』に登場した座敷童子は地霊であり、「イエ」の守り神であり、一族の歴史の目撃者であった。しかし黒子は座敷童子のような無害な「生き物」ではない。黒子は、歌舞伎や文楽ではしばしば舞台上の登場人物の運命を、悲劇へと誘う存在である。ときに悲劇の演出家でもある。登場人物たちが悲劇へと歩み出すところから、いきなり小躍りするように動き出す「悪意」である。
 その黒子たちは、すでにわたしたちの日常の中にいる。わたしたちの日常の中にいて、壊れつつある社会の中に、決定的な破滅と戦争を呼び込もうとしている。

 ラスト、気がつけば舞台は何人もの黒子で占められている。観客がその意味に慄然としたところで、舞台は終わる。観客の喝采や祝祭的高揚を拒絶する終わりかた。
 観客は恐怖から立ち直るために少しの時間を要する。自分が観たものはあくまでも地方劇団のバックステージもののお芝居、そんな不吉なものは見えていなかった、黒子など舞台上には存在しなかったと信じたい気持ちで、劇場をあとにすることになる。

 
# by sasakijo | 2014-07-24 12:48 | 日記