東京にいるあいだにお芝居2本。
『それはさておき恋はくせもの二の替わり』SPACE雑遊。
作・小松幹夫、演出は高橋征男(グループ虎)。わたしの原作舞台でお世話になっている石井ひとみさん、林真之介さん、久保田芳幸さんらの出演。ダンスは島明香さん、金刺航さん。
タイトルからは中身の想像はつかなかったのだけど、老人介護、老人虐待をテーマにした、かなりシリアスかつ同時代的なお芝居。この気分のまま劇場の外に出るのはきついなと思っていたら、最後に石井ひとみさんが歌い、島明香さんと金刺さんのダンスがあって、ふっと観客は舞台の世界観から抜けることができた。
もう一本は『スタンド・バイ・ユー』銀座みゆき館劇場。
香川耕二さんのグループKの公演。作・演出は湯澤公敏さん。やはりわたしの舞台作品によく出てくれている樋口泰子さん、福森加織さんらの出演。
主題はこちらも隣接していて、身内に先立たれた者の悲しみについてのお芝居。ただし、その実際の身内の死は、劇中劇の中に昇華されて、直接に前後の悲劇が描かれることはない。最後は若い未亡人となった樋口泰子さんの微笑だけが舞台の上に残って幕、という演出。全体の雰囲気は軽演劇というか、シチュエーション・コメディです。
『それはさておき恋はくせもの二の替わり』SPACE雑遊。
作・小松幹夫、演出は高橋征男(グループ虎)。わたしの原作舞台でお世話になっている石井ひとみさん、林真之介さん、久保田芳幸さんらの出演。ダンスは島明香さん、金刺航さん。
タイトルからは中身の想像はつかなかったのだけど、老人介護、老人虐待をテーマにした、かなりシリアスかつ同時代的なお芝居。この気分のまま劇場の外に出るのはきついなと思っていたら、最後に石井ひとみさんが歌い、島明香さんと金刺さんのダンスがあって、ふっと観客は舞台の世界観から抜けることができた。
もう一本は『スタンド・バイ・ユー』銀座みゆき館劇場。
香川耕二さんのグループKの公演。作・演出は湯澤公敏さん。やはりわたしの舞台作品によく出てくれている樋口泰子さん、福森加織さんらの出演。
主題はこちらも隣接していて、身内に先立たれた者の悲しみについてのお芝居。ただし、その実際の身内の死は、劇中劇の中に昇華されて、直接に前後の悲劇が描かれることはない。最後は若い未亡人となった樋口泰子さんの微笑だけが舞台の上に残って幕、という演出。全体の雰囲気は軽演劇というか、シチュエーション・コメディです。
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by sasakijo
| 2015-11-23 20:13
吉祥寺シアターで、「柿喰う客」の女体シェイクスピア・シリーズ第7弾『完熟リチャード三世』を観た。
「柿喰う客」の公演は、去年『へんてこレストラン』を初めて観て、本作が二本目。
「柿喰う客」中屋敷法仁の作品は、セリフまわしが独特だ。日本語を非日常的なリズムに載せて(たぶん作品ごとにそのリズムを違えている。いや、シェイクスピア・シリーズは統一されているのかな)、一本の作品を(百パーセントではないが)それで通す。『へんてこレストラン』は短い作品だったので、そのリズムは作品のトーンを決めた要素として心地よく耳に残ったけれど、1時間20分の本作では、やや単調、と感じたな。感情の起伏やテンションの高低を強調しない演出であるし。
チェス盤のような板が敷いてあるだけの舞台。セットなし。小道具も使わない。きわめて抽象性の高い作品。もっと言えば、ステージの「幕」さえも、「幕」を描いた書き割りなのだ(道具幕、か)。最初から虚構性が強く主張されている。
でも、シェイクスピア作品を少人数の女性だけで演じるという試みは面白かった。黒いドレスの女優さんたち七人が、出ずっぱりなのだ。
リチャード三世の安藤聖以外は何役も割り振られているのだけど、ある女優さんが別の役として初登場するたびに、べつの女優さんが「新キャラクターです」と紹介するのがおかしい。シェイクスピア作品のわかりやすいダイジェスト、としても観ることができるのではないか。
リチャード三世は、青年(少年かも)のような年齢設定になっている。醜いために疎まれて育った青年が、家族、一族に復讐してゆく屈折の物語。
わたしは『リチャード三世』が好きで、『天下城』の本能寺の変の章ではセリフを引用した。ふつう「是非もなし」と言ったことになっている織田信長の最期のセリフを、「馬を持て! 天下をくれてやる!」としたのだ。知人の英文学の教授が、「あれは『リチャード三世』ですね」と見抜いてくれた。
「柿喰う客」の公演は、去年『へんてこレストラン』を初めて観て、本作が二本目。
「柿喰う客」中屋敷法仁の作品は、セリフまわしが独特だ。日本語を非日常的なリズムに載せて(たぶん作品ごとにそのリズムを違えている。いや、シェイクスピア・シリーズは統一されているのかな)、一本の作品を(百パーセントではないが)それで通す。『へんてこレストラン』は短い作品だったので、そのリズムは作品のトーンを決めた要素として心地よく耳に残ったけれど、1時間20分の本作では、やや単調、と感じたな。感情の起伏やテンションの高低を強調しない演出であるし。
チェス盤のような板が敷いてあるだけの舞台。セットなし。小道具も使わない。きわめて抽象性の高い作品。もっと言えば、ステージの「幕」さえも、「幕」を描いた書き割りなのだ(道具幕、か)。最初から虚構性が強く主張されている。
でも、シェイクスピア作品を少人数の女性だけで演じるという試みは面白かった。黒いドレスの女優さんたち七人が、出ずっぱりなのだ。
リチャード三世の安藤聖以外は何役も割り振られているのだけど、ある女優さんが別の役として初登場するたびに、べつの女優さんが「新キャラクターです」と紹介するのがおかしい。シェイクスピア作品のわかりやすいダイジェスト、としても観ることができるのではないか。
リチャード三世は、青年(少年かも)のような年齢設定になっている。醜いために疎まれて育った青年が、家族、一族に復讐してゆく屈折の物語。
わたしは『リチャード三世』が好きで、『天下城』の本能寺の変の章ではセリフを引用した。ふつう「是非もなし」と言ったことになっている織田信長の最期のセリフを、「馬を持て! 天下をくれてやる!」としたのだ。知人の英文学の教授が、「あれは『リチャード三世』ですね」と見抜いてくれた。
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by sasakijo
| 2015-02-15 23:00
| 日記
『四人目の黒子』弘前劇場
脚本・演出 長谷川孝治
札幌シアターZOO
チラシで想像していた中身とは、まったく違った作品だった。
チラシにはこうあるのだ。
「演じる」「演じない」という区別は人生においてあるだろうか。
全ての人間は、何かを演じている俳優ではないだろうか。
歌舞伎や文楽にみられる、あの「黒子」を題材に、「演じる」「演じない」を「フィクション」「ノンフィクション」に読み換えて、現実の虚構を丹念に描いていきます。
実際の舞台は、このコピーとは離れ、黒子の意味も完全に違うものになっていた。たぶん制作過程で構想が変わり、長谷川孝治の「いま語りたいのはこのことだ」という、ある種の切迫感で作られた舞台なのだと思う。べつの言い方をすれば、長谷川孝治のカナリアとしての感受性を全面的に前に出して作られた舞台。
ひとことでわたしの解釈を書くなら、社会の崩壊と、来たるべき戦争の恐怖についての作品だ。黒子たちは、破滅と戦争の暗喩である。わたしたちの日常の中に、それは静かに侵入し、増殖している。見えるものには、その黒子たちが見えている。
ステージ上に設定されているのは、ある地方劇団の公演のスタッフ楽屋。数カ月前に韓国、中国公演をした、というこの劇団は、つまり弘前劇場そのものということだ。
モニターで舞台上を観ながら、スタッフたちがごく日常的な会話を続けている。男たちの何人かは、黒子の衣装である。
台詞にはいつもの弘前劇場的な軽みもあるが、垣間見えてくるものは、日本社会が抱えるアクチュアルな問題ばかりだ。認知症の老人、その介護、シングルマザーの厳しい生活、若い女性の(風俗産業以外に働き口がないというほどの)絶対的貧困。若い世代の結婚難。そして戦争の機運の高まり。
そのスタッフ楽屋に、気がつくと劇団員ではない「黒子」がいる。
ひとつ弘前劇場の作品を思い出せば、『素麺』に登場した座敷童子は地霊であり、「イエ」の守り神であり、一族の歴史の目撃者であった。しかし黒子は座敷童子のような無害な「生き物」ではない。黒子は、歌舞伎や文楽ではしばしば舞台上の登場人物の運命を、悲劇へと誘う存在である。ときに悲劇の演出家でもある。登場人物たちが悲劇へと歩み出すところから、いきなり小躍りするように動き出す「悪意」である。
その黒子たちは、すでにわたしたちの日常の中にいる。わたしたちの日常の中にいて、壊れつつある社会の中に、決定的な破滅と戦争を呼び込もうとしている。
ラスト、気がつけば舞台は何人もの黒子で占められている。観客がその意味に慄然としたところで、舞台は終わる。観客の喝采や祝祭的高揚を拒絶する終わりかた。
観客は恐怖から立ち直るために少しの時間を要する。自分が観たものはあくまでも地方劇団のバックステージもののお芝居、そんな不吉なものは見えていなかった、黒子など舞台上には存在しなかったと信じたい気持ちで、劇場をあとにすることになる。
脚本・演出 長谷川孝治
札幌シアターZOO
チラシで想像していた中身とは、まったく違った作品だった。
チラシにはこうあるのだ。
「演じる」「演じない」という区別は人生においてあるだろうか。
全ての人間は、何かを演じている俳優ではないだろうか。
歌舞伎や文楽にみられる、あの「黒子」を題材に、「演じる」「演じない」を「フィクション」「ノンフィクション」に読み換えて、現実の虚構を丹念に描いていきます。
実際の舞台は、このコピーとは離れ、黒子の意味も完全に違うものになっていた。たぶん制作過程で構想が変わり、長谷川孝治の「いま語りたいのはこのことだ」という、ある種の切迫感で作られた舞台なのだと思う。べつの言い方をすれば、長谷川孝治のカナリアとしての感受性を全面的に前に出して作られた舞台。
ひとことでわたしの解釈を書くなら、社会の崩壊と、来たるべき戦争の恐怖についての作品だ。黒子たちは、破滅と戦争の暗喩である。わたしたちの日常の中に、それは静かに侵入し、増殖している。見えるものには、その黒子たちが見えている。
ステージ上に設定されているのは、ある地方劇団の公演のスタッフ楽屋。数カ月前に韓国、中国公演をした、というこの劇団は、つまり弘前劇場そのものということだ。
モニターで舞台上を観ながら、スタッフたちがごく日常的な会話を続けている。男たちの何人かは、黒子の衣装である。
台詞にはいつもの弘前劇場的な軽みもあるが、垣間見えてくるものは、日本社会が抱えるアクチュアルな問題ばかりだ。認知症の老人、その介護、シングルマザーの厳しい生活、若い女性の(風俗産業以外に働き口がないというほどの)絶対的貧困。若い世代の結婚難。そして戦争の機運の高まり。
そのスタッフ楽屋に、気がつくと劇団員ではない「黒子」がいる。
ひとつ弘前劇場の作品を思い出せば、『素麺』に登場した座敷童子は地霊であり、「イエ」の守り神であり、一族の歴史の目撃者であった。しかし黒子は座敷童子のような無害な「生き物」ではない。黒子は、歌舞伎や文楽ではしばしば舞台上の登場人物の運命を、悲劇へと誘う存在である。ときに悲劇の演出家でもある。登場人物たちが悲劇へと歩み出すところから、いきなり小躍りするように動き出す「悪意」である。
その黒子たちは、すでにわたしたちの日常の中にいる。わたしたちの日常の中にいて、壊れつつある社会の中に、決定的な破滅と戦争を呼び込もうとしている。
ラスト、気がつけば舞台は何人もの黒子で占められている。観客がその意味に慄然としたところで、舞台は終わる。観客の喝采や祝祭的高揚を拒絶する終わりかた。
観客は恐怖から立ち直るために少しの時間を要する。自分が観たものはあくまでも地方劇団のバックステージもののお芝居、そんな不吉なものは見えていなかった、黒子など舞台上には存在しなかったと信じたい気持ちで、劇場をあとにすることになる。
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by sasakijo
| 2014-07-24 12:48
| 日記
下北沢のスズナリで、弘前劇場・長谷川孝治『アザミ』再演を観てきた。
評判は聞いていたが、素晴らしい舞台。観る前にはどうしても弘前劇場の基本的なトーン「地方の日常の描写の中に、じっくりと人間ドラマが浮かび上がる」という作品を予想していたのだけれど、完全にはずれた。
そもそも、舞台となる土地は、そこそこの規模の放送局のある都市。後述する劇中の童話の舞台が青森なのだが、弘前劇場の多くの作品のようには方言は使われない。台詞(童話のテキスト)の中の桟橋、連絡船、待合室といった言葉は、たしかにいまやファンタジーのキーワードのように聞こえる。設定の抽象性は高い。
その街にある大学の、深夜の研究室。大学の講師であり、童話作家でもある中年男が主人公。彼をめぐる危険な関係の物語だ。登場人物は男女ふたりずつの四人。
出演は、村田雄浩、、伊勢美知花、小笠原真理子、林久志。脚本・演出は長谷川孝治。
深夜の研究室、作家が苦しみつつ童話を書き進め、これと並行して登場人物の関係が可視化され、そのからみあった関係の解決がはかられる。
去年の弘前劇場のドラマ・リーディングで演じられた作品、『港立裏町図書館』(正式のタイトルはちがった思う)が、劇中で主人公が書く童話、という構造になっている。その童話の、少女、図書館、老司書、という設定が、現実の、女子学生、研究室、中年の講師(作家)、という設定に対応している。
放送局の、作家を担当する制作担当者(小笠原真理子)の台詞。
「いつ、壊れたの、あなた?」
それを言ったあとの彼女の眼差しが、怖い。
ナイフをずっと目の前に突きつけられたような、サスペンスフルな舞台だった。
評判は聞いていたが、素晴らしい舞台。観る前にはどうしても弘前劇場の基本的なトーン「地方の日常の描写の中に、じっくりと人間ドラマが浮かび上がる」という作品を予想していたのだけれど、完全にはずれた。
そもそも、舞台となる土地は、そこそこの規模の放送局のある都市。後述する劇中の童話の舞台が青森なのだが、弘前劇場の多くの作品のようには方言は使われない。台詞(童話のテキスト)の中の桟橋、連絡船、待合室といった言葉は、たしかにいまやファンタジーのキーワードのように聞こえる。設定の抽象性は高い。
その街にある大学の、深夜の研究室。大学の講師であり、童話作家でもある中年男が主人公。彼をめぐる危険な関係の物語だ。登場人物は男女ふたりずつの四人。
出演は、村田雄浩、、伊勢美知花、小笠原真理子、林久志。脚本・演出は長谷川孝治。
深夜の研究室、作家が苦しみつつ童話を書き進め、これと並行して登場人物の関係が可視化され、そのからみあった関係の解決がはかられる。
去年の弘前劇場のドラマ・リーディングで演じられた作品、『港立裏町図書館』(正式のタイトルはちがった思う)が、劇中で主人公が書く童話、という構造になっている。その童話の、少女、図書館、老司書、という設定が、現実の、女子学生、研究室、中年の講師(作家)、という設定に対応している。
放送局の、作家を担当する制作担当者(小笠原真理子)の台詞。
「いつ、壊れたの、あなた?」
それを言ったあとの彼女の眼差しが、怖い。
ナイフをずっと目の前に突きつけられたような、サスペンスフルな舞台だった。
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by sasakijo
| 2014-02-15 20:37
日中韓合作の舞台『祝/言』を観た。
国際交流基金と青森県立美術館の制作、東日本大震災に対してアーチストが芸術を通して向き合うことを直接の目的とした作品だという。死者たちの鎮魂のための芸能舞台、という性格も持つ。音楽と舞と詞が被災者のために捧げられるのだ。東北の被災地の演劇人が参加しているほか、中国、韓国のパフォーミング・アーチストたちも、まったく等量の重さでそれぞれの役割を受け持つ。俳優たちの多くは、二カ国語の台詞を喋る。作・演出は弘前劇場の長谷川孝治。
このような枠組みで制作された舞台であるから、ある部分は公的催事と見るべきなのだろう。規模はちがうけれども、ちょうどオリンピックの開会式のような。つまりそこでは、相互理解と友好、連帯が、ストレートに、高らかに語られる。
じっさい、このお芝居でも、ひとりの登場人物がじつに直接的な言葉で口にするのだ。
「わたしたちは日本人や中国人や韓国人である前に、ひとなのだ」
「言葉は通じなくても、ひとには魂がある。魂は、伝わる」
死者の鎮魂のための奉納舞台としては、メッセージは見事に実現している。ラスト、韓国の音楽ユニット、アンサンブル・シナウィの演奏に、舞台上も観客も盛り上がる。ある種のユートピアを、観客は舞台上に観たと確信できる。それがいずれは空間的にも時間的にも拡大してゆくだろうと、信じることができる。
しかし、この作品はもうひとつ、日中韓の男女の関係の悲劇でもある。公的催事のメッセージとして語られた理想が、お芝居では裏切られる。むしろ「ひと同士の」相互理解や結びつきの困難性のほうをこそ、観客は意識させられるのだ。
その日、三月十一日の午後、東北のとあるホテルで、祝言がとり行われようとしている。新郎は日本人。大学の教員だ。新婦は韓国人。新郎の大学の学生である。歳の差のあるカップル。結婚式には、新郎と同じ研究室で働く中国人女性教員(役名はモンヤ、上海在住の女優・李丹が演じる)も招待されている。彼女の年齢は新郎に近いか同年代。新婦は彼女の直接の教え子である。
祝言当日までに、観客はかつて新郎とモンヤとのあいだに、同僚意識を超えた関係があったことを知らされている(どのような深さでかは、はっきりとは語られない。でも、ふたりとも大人なのだ)。しかし新郎は若い韓国人女性を配偶者に選び、モンヤには結婚式立ち会い人を頼む。モンヤは自分の新郎への想いを抑え、なんとかその役割を果たそうとする。
ホテルに新郎新婦両家の面々が集まり、友人たちもやってくる。ほどなく民族を超えてふたつのファミリーがつながり、その周囲のひとびともまた新しい関係を築いてゆくだろうという予感。望ましき絆が生まれることへの期待に、出席者たちは高揚する。ひとりモンヤだけは、その場に満ちた幸福感に耐えられず、忘れ物をしたとして消える。
ジャム・セッションが始まる。津軽三味線とシナウィとの演奏に会場は盛り上がる。ここで前述の台詞。新郎の父親の感慨だ。「言葉が通じなくても、魂は、伝わる」。直後に、大地震と津波がホテルを襲う。結婚式の関係者のほとんどが死ぬ。
民族を超えたふたつの家族の結合は、成就しなかった。新郎の父親のナイーブな夢は打ち砕かれた。新郎はモンヤの想いをついに知ることもなく、彼女がその祝言の場から消えたことさえ気づかないままに死んだ。「魂」は伝わらなかったのだ。
震災さえなければ、とは観客は感じない。新郎は、そしてその祝言は、ひとりの女性をすでに打ち砕いていた。モンヤの想いを知る観客は、そのあとにきた天災を、犠牲者の数で比較してより不条理だと言うことはできない。
ラスト、登場人物たちのほとんどは白い衣装で登場する。白い衣装は、彼ら彼女らが死者として認識され、ある意味では罪を浄化された存在となったことの象徴である。しかし、モンヤだけは黒い服。彼女は冒頭から(震災から二年八カ月後、という設定だ)ずっと喪服を想わせる服のままだった。
生き残ったことの呵責が彼女をさいなんでいる。また、「想いがついに伝わらなかったこと」を、まだ受け入れることができていない。
いや、震災と津波の以前に、彼女はすでにうちのめされ、絶望していた。愛しているひとのそばからみずからを消すほどに。被災地で死者とも対話する彼女は、もしかすると認識されなかった死者、魂を鎮められていない死者であるのかもしれない。カーテンコールとも言えるそのラストでも、彼女だけは、晴れやかな笑みを見せることなく、黒い服でそこに立つのだ……。
三カ国合作の妙味が生きた素晴らしい舞台だった。
ひとつ、袴姿の男性が舞う日本舞踊だけは、どうにも違和感があった。ほかのパフォーミング・アーツが(音楽も、ダンスも、演技も)、他のパフォーマーと連携し、あるいは触発しあって観客を惹きつけていたのに、このひとの踊りは彼ひとりで完結していたからだろうか。あの舞踊は、この舞台の表のメッセージからも遠かった。
国際交流基金と青森県立美術館の制作、東日本大震災に対してアーチストが芸術を通して向き合うことを直接の目的とした作品だという。死者たちの鎮魂のための芸能舞台、という性格も持つ。音楽と舞と詞が被災者のために捧げられるのだ。東北の被災地の演劇人が参加しているほか、中国、韓国のパフォーミング・アーチストたちも、まったく等量の重さでそれぞれの役割を受け持つ。俳優たちの多くは、二カ国語の台詞を喋る。作・演出は弘前劇場の長谷川孝治。
このような枠組みで制作された舞台であるから、ある部分は公的催事と見るべきなのだろう。規模はちがうけれども、ちょうどオリンピックの開会式のような。つまりそこでは、相互理解と友好、連帯が、ストレートに、高らかに語られる。
じっさい、このお芝居でも、ひとりの登場人物がじつに直接的な言葉で口にするのだ。
「わたしたちは日本人や中国人や韓国人である前に、ひとなのだ」
「言葉は通じなくても、ひとには魂がある。魂は、伝わる」
死者の鎮魂のための奉納舞台としては、メッセージは見事に実現している。ラスト、韓国の音楽ユニット、アンサンブル・シナウィの演奏に、舞台上も観客も盛り上がる。ある種のユートピアを、観客は舞台上に観たと確信できる。それがいずれは空間的にも時間的にも拡大してゆくだろうと、信じることができる。
しかし、この作品はもうひとつ、日中韓の男女の関係の悲劇でもある。公的催事のメッセージとして語られた理想が、お芝居では裏切られる。むしろ「ひと同士の」相互理解や結びつきの困難性のほうをこそ、観客は意識させられるのだ。
その日、三月十一日の午後、東北のとあるホテルで、祝言がとり行われようとしている。新郎は日本人。大学の教員だ。新婦は韓国人。新郎の大学の学生である。歳の差のあるカップル。結婚式には、新郎と同じ研究室で働く中国人女性教員(役名はモンヤ、上海在住の女優・李丹が演じる)も招待されている。彼女の年齢は新郎に近いか同年代。新婦は彼女の直接の教え子である。
祝言当日までに、観客はかつて新郎とモンヤとのあいだに、同僚意識を超えた関係があったことを知らされている(どのような深さでかは、はっきりとは語られない。でも、ふたりとも大人なのだ)。しかし新郎は若い韓国人女性を配偶者に選び、モンヤには結婚式立ち会い人を頼む。モンヤは自分の新郎への想いを抑え、なんとかその役割を果たそうとする。
ホテルに新郎新婦両家の面々が集まり、友人たちもやってくる。ほどなく民族を超えてふたつのファミリーがつながり、その周囲のひとびともまた新しい関係を築いてゆくだろうという予感。望ましき絆が生まれることへの期待に、出席者たちは高揚する。ひとりモンヤだけは、その場に満ちた幸福感に耐えられず、忘れ物をしたとして消える。
ジャム・セッションが始まる。津軽三味線とシナウィとの演奏に会場は盛り上がる。ここで前述の台詞。新郎の父親の感慨だ。「言葉が通じなくても、魂は、伝わる」。直後に、大地震と津波がホテルを襲う。結婚式の関係者のほとんどが死ぬ。
民族を超えたふたつの家族の結合は、成就しなかった。新郎の父親のナイーブな夢は打ち砕かれた。新郎はモンヤの想いをついに知ることもなく、彼女がその祝言の場から消えたことさえ気づかないままに死んだ。「魂」は伝わらなかったのだ。
震災さえなければ、とは観客は感じない。新郎は、そしてその祝言は、ひとりの女性をすでに打ち砕いていた。モンヤの想いを知る観客は、そのあとにきた天災を、犠牲者の数で比較してより不条理だと言うことはできない。
ラスト、登場人物たちのほとんどは白い衣装で登場する。白い衣装は、彼ら彼女らが死者として認識され、ある意味では罪を浄化された存在となったことの象徴である。しかし、モンヤだけは黒い服。彼女は冒頭から(震災から二年八カ月後、という設定だ)ずっと喪服を想わせる服のままだった。
生き残ったことの呵責が彼女をさいなんでいる。また、「想いがついに伝わらなかったこと」を、まだ受け入れることができていない。
いや、震災と津波の以前に、彼女はすでにうちのめされ、絶望していた。愛しているひとのそばからみずからを消すほどに。被災地で死者とも対話する彼女は、もしかすると認識されなかった死者、魂を鎮められていない死者であるのかもしれない。カーテンコールとも言えるそのラストでも、彼女だけは、晴れやかな笑みを見せることなく、黒い服でそこに立つのだ……。
三カ国合作の妙味が生きた素晴らしい舞台だった。
ひとつ、袴姿の男性が舞う日本舞踊だけは、どうにも違和感があった。ほかのパフォーミング・アーツが(音楽も、ダンスも、演技も)、他のパフォーマーと連携し、あるいは触発しあって観客を惹きつけていたのに、このひとの踊りは彼ひとりで完結していたからだろうか。あの舞踊は、この舞台の表のメッセージからも遠かった。
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by sasakijo
| 2014-01-14 17:18
| 日記