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佐々木譲の散歩地図

弘前劇場『素麺』

弘前劇場『素麺』、その再演を観た。
12月7日夜公演、札幌コンカリーニョは満席。観客の多くは初演も観ているひとたちと見えた。

311を直接の題材にした舞台作品。
長谷川孝治が、津波の被害当事者を登場人物において提示するのは、このような問いだ。
「311の被災は、耐え忍び、やり過ごしてやるべき仮の事態、あるいはいつかは覚める悪夢なのか、それとも痛苦の想いで受け入れねばならぬ新しい現実なのか」

自明のこと、と答えることはできない。悪夢であってほしいという願いは、被災地に広く深く沈潜している。ましてや初演時の一年前であれば。

青森の旧家の三人姉妹が主な登場人物。次女は母親の故郷へ両親をともなってドライブ旅行に出ていたとき津波に遭い、両親を失う。三人で素麺を食べようとしていた矢先の被災だった。それ以降彼女は生き残った自分を罰するかのように、被災地でのボランティア活動に打ち込んでいる。周囲が彼女の健康を不安視するほどに。

姉妹にとって叔父にあたる中年男性も、被災地から青森に移って、臨時雇いの仕事についている。被災のことをほとんど語らないこの叔父は、あえて軽薄に振る舞うことで、衝撃と悲しみとに耐えているようにも見える。

その姉妹の家は、蔵があるほどの広い屋敷だ。座敷童も住み着いているが、蔵の改修が始まったことで、その家は居心地が悪くなった。座敷童はべつの家に移るしかなくなったと感じてきている。しかし東北でも蔵があるほどの家は少なくなっている。移ることには迷いがある。

ここに、二十年も下宿している市役所職員や、蔵の改修工事を引き受けている大工、鳶職たちが加わり、弘前劇場的な日常が描かれる。じっさいのところ、津波の直接の被害者・次女が登場するのは、お芝居もかなり進行してからである。それまでテーマは前景化してこない。

長谷川孝治は、これまでも食事の場を、共感や和解、共同性の再構築の象徴としてじつに効果的に使ってきた。『檸檬/蜜柑』の鍋焼きうどんや、『アグリカルチャー』のカレーライスが印象的であった。この作品では、タイトルにある「素麺」がその役割を受け持つ。しかし次女にとっては、それは残酷すぎる喪失の象徴である。被災を忘れて食することは難しい。

このタイトルの舞台であれば、「みなが卓を囲んで素麺を食べる」場面は、本来なら大団円に置かれるはずである。しかしじっさいはラストの少し前に、そこだけ非現実のように演出される。観客は誰もが(とくに次女が)屈託なくそれを食べるに至ったとは受け取ることができない。彼女の傷はそれほどに重い。

しかしラスト、次女と叔父は、それまでの野暮ったい(労働着としての) セーターから、アーガイルのセーターに着替えて登場する。アーガイル模様はこの場合「お洒落の記号」と読める。ふたりが社交生活への復帰も自分に許すまでに立ち直ったということなのだろう。

また、この家の住人たちの「その後」を見つめてきた座敷童も逡巡を振り切り、三陸方面にべつの家を探しに出る。「仮設(住宅)でもいい」と、古い大きな屋敷へのこだわりを捨てて。

叔父も、被災地に帰ることを決めている。「仮設に戻る」と。

ここで「仮設住宅」(被災に直接的つながる時空間)は、一時的、臨時的なものではなく、「新しい現実」となったことが示される。この現実を受け入れることからしか、被災家族の再生はない。被災者が立ち直ることはできない。

あくまでも弘前劇場的でありながら、かなり厳しい認識をはらんだ舞台だった。
# by sasakijo | 2013-12-12 09:07 | 日記

劇団・千年王國の『ローザ・ルクセンブルク』

劇団・千年王國の『ローザ・ルクセンブルク』を観た。作・演出は橋口幸絵。

 観る前、わたしよりふた回りも若い橋口さんが、ローザ・ルクセンブルクを取り上げるというのが意外だった。ローザは非業の死をとげた社会主義革命家であり、近代史好きには知られていても、けっしてポピュラーな人物ではない。最近の女性にファンが多い歴史上の人物とも聞いたことはなかった。

 あるいは橋口さんは、彼女の生き方にフェミニズムのひとつのモデルを見たのかとも予測していったのだけれど、はずれた。いや、その要素もあるけれど、これはストレートな革命のメッセージについての舞台である。きわめて今日的な問題意識に裏打ちされた政治劇である。 面白かった!

 ローザ・ルクセンブルクを四人の女優さんがリレーのように交替で演じてゆく。最初その演出意図がつかめなかったが、三人目の女優さんに代わったところで、これはひとつの肉体、ひとつの固有名詞の物語ではないとわかった。ローザ・ルクセンブルクは、平和と自由を希求する女性一般の象徴である。彼女は世界中のどこにでもいる。どの時代にもいる。五百年前のローザが出てきて、百年前のローザも出てくる。百年後のローザも登場する。

「百年後のローザ」(ローザ・ルクセンブルクの没年は1919年だ)という台詞が出てきたとき、ローザの悲痛な叫びは311に直接つながるメッセージとわかる。この作品は、311後の日本人が、百年前のローザの声に耳を傾けようとする試みである。それは同時に(アナルコ・サンジカリズム的社会主義者と評価されているローザをわざわざ取り上げる以上)、帝国主義とスターリニズムに替わっていまや地上の大半を覆うグローバル資本主義への、「ノン」の意思表示でもある。

 千年王國の舞台を観るのは二度目なのだけど、踊りとエスニック風の音楽(今回は馬頭琴が中心)の使い方がじつ巧みだ。とくにロシア革命を表現する群舞は圧巻。また、ワルシャワ労働歌の大合唱には、鼻水をすすらねばならなかった(そういう世代さ)。

 わたしは1991年にベルリンで、ローザとリープクネヒトの遺体遺棄現場という場所を訪ねたことがある。当時のベルリンの旅行案内には記述があり、現地には案内板もあった。たしか旧日本大使館跡から徒歩で行けた距離の運河畔。ところがローザの遺体をめぐっては最近、よくわからない情報が出てきているのだね。遺体は当時は本人のものとは確認されていなかったのか。
# by sasakijo | 2013-11-24 17:26 | 日記

今年の二紀展と独立展

 先月は新国立美術館で、二紀展と独立展を観てきた。このときのことを、あまり時間がたたないうちに。

 というのも、先日とある理系の文化人がツイッターで、やはり新国立美術館を話題にしていたからだ。彼は自分が観た『アメリカン・ポップ・アート展』を絶賛し、片一方で同時に開催されていた公募展をその創造性という視点から嘲笑していた(時期を考えれば、このとき開催されていたのは新制作展と行動展だ!)。

 しかしわたしに言わせれば、美術館の企画展(現存作家のものならともかく)というのは、時間と権威による、評価の定まった作品のパッケージである。音楽で言えば「名曲コンピレーションCD」だ。観る意味がないとは言わないが、美術史というフィルターを通しての鑑賞にならざるを得ない。

 これに対して公募展、美術団体展は、ライブである。もちろんこうした団体展もピンからキリまであるし、作品も玉石混淆だ。美術団体の存在自体にも、先日の日展・書部門のスキャンダルで露顕したような、議論すべき部分がある。それを承知で言うが、それでもアートの「現在」は、企画展の側ではなく、公募展、団体展の側にある。企画展を絶賛し(「アメリカン・ポップ・アートだって、50年前の最先端でしかない)、公募展、 団体展を嘲笑することは、自分にはアートを観る目がないと言っているに等しい。

 その公募展・団体展で、いまわたしが気になるのは、311 を同時代のアーチストはどう受けとめたかという点だ。現代のアメリカ文学を読むときに、その作者の911を観る視点を考えないわけにはいかないのと同様だ。

 もちろん311とは無関係に独自世界を描き続けるアーチストがいてもいいが、しかしその衝撃を内面化、主題化したアーチストも少なからずいる。こうしたアーチストが311をどう表現しているのか、同時代人としてはとても気になる。

 たとえば伊藤光悦は、ここ十年近く、写実の技法でもっぱら「終末」をテーマに描いてきた。砂漠の中の廃墟となった都市、砂漠に不時着した大型旅客機の残骸、あるいはなぜか砂漠に打ち上げられた巨大な廃船。高度な技術文明の崩壊後をテーマとしてきた。とくにその廃船のイメージは、311の多くの映像を「既視感がある」と感じさせるほどに予見的であった。

 去年、伊藤光悦はおそらく311以前からかかっていたであろう同じテーマの作品を出展していたが、今年は画題を一変させた。これまでのように砂漠の廃船を描けば、その終末イメージがあまりにも直接的であり、通俗、凡庸と見えたことは間違いないはずだから。

 伊藤光悦は今年、静かな港の情景を描いて出展したのだ。日没も近い時刻、小さな漁港の防潮堤で、ひとが釣り糸を垂れ、親子が遠くを眺めている。水平線近くに月が上がっているから、東に面した漁港であるとわかる。釣り人の影がくっきりと防潮堤の壁に映っている。平和で穏やかな日本の日常的な風景。ふと気づくと、その防潮堤には、実体がないのに、三人の人影も描かれている。いるはずのひとが、そこにはいないのだ。右手から伸びる防潮堤の先は、倒壊して海に沈みこんでいるようにも見える。一瞬にして、描かれているものの意味が反転する。観る者はそこで慄然とする。

 つまりこれは、大津波の後の漁港の風景なのだ。べつの言い方をすれば、その場から失われたものについての風景画。見えないもののほうを主題にした作品である。

 また同じ二紀会の遠藤彰子は、エッシャーふうの奇妙な都市(あるいは施設)と、そこに生きるひとびとを描き続けてきた作家だ。その情景はどれもどこかノスタルジックで、郷愁を誘うものだった。しかし、311後は、その世界が崩壊してゆく恐怖こそが主題となっている。昨年彼女の講演を聞いたが、そこで紹介された新作のスライドでは、海から上がってきたモンスター(巨大なタコのように見える)が、彼女の世界を襲っていた。今年の二紀展出展作では、彼女の都市の中心部で火災が起こり、ひとびとは逃げまどっている。津波と、福島第一原発が、懐かしく平和なものであったはずの彼女の主題を、浸食しているのだ。

 独立展のほうでは、二紀展ほどには311を直接の主題とした作品は少なかったが。それでも二紀展、独立展ともにいくつか、方舟のイメージを描いたものがあったことには、やはり「311後」を感じないわけにはいかない。
 どちらもいつにも増して濃密な団体展であったという印象を受ける。わたしは双方を二度ずつ観た。
# by sasakijo | 2013-11-16 16:04 | 日記

札幌座『霜月小夜曲』再演

札幌座『霜月小夜曲』((ノヴェンバー・セレナーデ)。作・演出・音楽は斉藤歩。

 二年前に初演された『霜月小夜曲』のうれしい再演。札幌座のレパートリー演目に加わった名作をまた観てきた。

 北海道・宗谷地方の農村が舞台。高校時代、演劇少女だった三人の女性が、二十五年ぶりに再会する。ひとりは高校の教諭となって道内各地を転勤する人生。もうひとりは国内はもとより中東から南米までを流転した。
 ひとりは農家の青年と結婚して地元で生きた。その彼女の夫となった同級生の不可解な失踪事件と死が、三人の関係に影を落とす。
 三人を演じるのは、宮田圭子、林千賀子、吉田直子。劇団の創立メンバーだという。劇中に流れた二十五年という時間は、彼女たちが女優として生きた時間にも重なるのだろう。

 斉藤歩は、この作品では徹底して「地方」のありようを凝視する。北海道の農村の現在を見つめる。北海道の郡部に生きるひとびとの出自と、生きかたの根拠を問う。
 重要な小道具として使われているものは「豆」だ。ラスト近くで、ハイブリッドの豆の収穫が語られる。移民たちの子孫同士の結合によるあらたな「種」の誕生の暗喩なのだろうか。大量流通は不可能で、商業主義にもなじまない品種。しかし遠くからの遺伝子を受け継ぎ、新天地の痩せた土壌と過酷な気候にも耐えて生育してきた作物。その思いがけない交配種、道産子の新世代。

 ラスト、主人公三人がチェーホフ『三人姉妹』のそれぞれの台詞を引き受けて語る。時間は彼女たちに、その台詞をすっかり内面化させた。台詞は彼女たち自身の肉声となった。
 正直言うと、初演のときよりも今回のほうが、この部分に揺さぶられた。二度目なので、主人公三人への共感がより深くなったせいだろう。
 作品のテーマを簡潔な言葉に託した劇中歌『霜月小夜曲』も印象的、効果的だ。斉藤歩のオリジナル。
 
 今年の「札幌演劇シーズン」開幕作品だが、このあと北海道各地でも公演されるほか、東京公演もある。東京の観客には、これだけ「地域性」を強調した作品はどう受け取られるのだろう。
http://www.h-paf.ne.jp/sapporoza/schedule.html
# by sasakijo | 2013-07-21 09:43 | 日記

弘前劇場『最後の授業』

弘前劇場の新作『最後の授業』を観た。

 3.11を題材にした、ストレートなメッセージのある作品。長谷川孝治の作品には珍しくも感じられたので、観終わったあとにいくつか長谷川孝治に確認してしまった。

 前作『素麺』も同じように3.11を題材にしていたというが、わたしは観ていない。『最後の授業』はこれと較べてペシミステックな印象が濃い、というのは、前作も観ているひとの言葉だ。

 たしかにこの作品の基調をなしているのは、「日本はもう終わる」あるいは「すでに終わってしまったのではないか」という苦い認識だ。夏休み前の私立高校の職員室の日常に、その認識がときおり鋭い亀裂のように走る。日常と見えているもののいくつかも、すでに終わっている。

 養護教諭役の小笠原真理子が、妊娠した姿で登場する。もう臨月。彼女は結婚しているのか、夫はどんな人物なのか、説明されないままに舞台は進む。福島、がキーワードであることが、ラスト近くになってわかる。小笠原真理子の妊娠をめぐる衝撃的な事実。その妊娠を祝福してよいのかどうかに、観客はとまどう。

 ラストは、窓の外にぎらつく真夏の光。蝉が鳴いている。麦わら帽子をかぶった教諭ふたりの、また日常的な会話。窓の外の光は、太陽光にしては強すぎるように思える。蝉の声。真夏。いやおうなく連想するできるものがある。やがてその光は強さを失い、窓の外はたそがれる。

 弘前劇場らしい台詞の応酬を楽しみつつ、重い問いかけに自分の認識を再確認する作品。
# by sasakijo | 2013-07-14 12:47