人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ここは佐々木譲が開設している備忘録ブログです。日々の暮らしと、本、映画について書いています。


by sasakijo
先日、函館で中島三郎助についてNHK大阪から取材を受けました。
放送予定の連絡があったので、ご案内します。

◎歴史秘話ヒストリア
 「世にも数奇なラストサムライ
  ~幕末 いつも”そこ”にいた男・中島三郎助~」
 本放送:7月6日(水)22:00~22:43 NHK総合
 再放送:7月27日(水)16:05~16:48 NHK総合

※再放送については、国会中継などにぶつかることが多い時間帯でもあり、
 変更・中止になる場合もございます。あらかじめご了解下さい。
とのことです。
# by sasakijo | 2011-06-25 07:30 | 広告

絶対安全、の虚構

午後4時の枝野長官の会見を見るかぎり、深刻な事態は脱したのかもしれない。被曝や爆発の危険の中、献身的に注水作業にかかっている現場のひとを想うと、つくづく頭が下がる。同時に、現場の犠牲によってこのデリケート過ぎるシステムを維持することの限界も思う。

いまこの時点でも原発絶対安全を主張するひとたちは、たぶん科学者・技術者の知性に対して無条件の信頼があるのだろう。しかし阪神大震災を思い出して欲しい。被災直後、関わった地震学者が、高速道路の建設計画のために想定数値を低く報告したと告白していた(その後の追及はなかったが)。

LA地震のときに視察した日本人学者たちは、高速道路の崩壊現場で「日本では絶対に起こらない」と強調していた。この映像は、阪神大震災直後、アメリカ、カナダの放送局で繰り返し流れた。日本人学者たちのレベルが嘲笑されていたのだ。

また、絶対の安全性を確保するはずのプラント設計は、施工業者によって具現化される。仕様書の指示から鉄筋を何パーセント抜くか、それを追求する業界が建設工事を請け負うのだ。

設計が目標とした耐震性も強度も、じっさいは図面上の数値に過ぎなくなる。やはり阪神大震災では、崩壊した高速道路の橋脚から、鉄筋の代わりに何が出てきたか思い出そう。


ビル建設の作業員として働いた実体験で記せば、工事途中の検査はしばしば無視される。型枠組みのあと、その検査前日に生コンクリートを打ち込み、検査省略は「手違い」として工事は進む。このとき、コンクリート打設部分を解体して一からやりなおせ、と業者に命じる検査員(あるい施工主側幹部)はいない。

なぜ建設業者が検査を逃れるか、理由は書くまでもない。

また、安全を担保するはずの厳格に定められたマニュアルが、現場ではしばしば「弾力的に運用される」ことも、東海村JCO臨界事故で、わたしたちは承知している。

なるほど、技術者たちは設計段階では「絶対安全」をクリアしたかもしれない。しかしプラントが出来上がってゆくあらゆる過程で、その技術的裏付けは骨抜きにされてゆく。稼働したあとも同様だ。結果として、設計上は起こるはずのないことが起きて、技術者たちは首をひねる。

アポロ計画では、宇宙船の部品のすべてにわたって99.9999パーセントの信頼性を確保したという。それができたのは、宇宙船がそのサイズの工業製品であったからだ。原子炉はともかく、原発プラント全体は、同じ基準での管理は不可能だ。

鎖の強度は、もっとも弱い輪の強さで決まる。巨大な原発プラントに一カ所でも、手抜き工事、もしくは施工ミスがあれば、めざした強度は持ち得なくなる。作業員が「燃料計から目を離した」という事態も、技術者たちは想定していないだろう。

ふつうの「現場の感覚」があれば、「原発は絶対安全」という主張など、虚構もしくは意図された神話に過ぎないと身体で認識できる。

そしてその虚構に寄りかかることのリスクは、火力や水力発電システムの比ではないのだ。

節電? 受け入れようじゃないか。二者択一だというなら。
# by sasakijo | 2011-03-15 17:39 | 日記
札幌の人気劇団TPSが、代表作の3つの演目を一カ月上演するという試み。このうち『冬のソナチネ』『西線11条のアリア』を観た。

http://www.h-paf.ne.jp/ 

『西線11条のアリア』は2005年初演の名作。札幌の路面電車の停車場を舞台にしたファンタジーだ。ネタばれでも十分面白いと思うので書くが、札幌の市電というきわめて日常的な乗り物が、じつは「銀河鉄道」だったという作品。

TPSを主宰するのは、東京のメディアでも俳優として活躍する斉藤歩。音楽にも強く、劇中の音楽もオリジナルを作曲してしまう。

役者さんたちも何かしらの楽器を演奏するひとが多く、それがTPSの舞台に豊かな音楽性を与えている。『冬のソナチネ』では、札幌交響楽団のメンバーだった土田英順さんがチェロを弾く。TPSのロングラン公演は3月27日まで。


# by sasakijo | 2011-03-11 08:54 | 日記
映画『アレクサンドリア』を観た。原題は『AGORA』、監督アレハンドロ・アメナーバル。
http://www.youtube.com/watch?v=FOrmvCuBpKQ

舞台は4世紀のエジプトのアレクサンドリア。とくに、四世紀かけて再建されたアレクサンドリア図書館で物語の多くが進行する。

主人公は、当時アレクサンドリアに実在した女性天文学者、数学者。ヒュパティア、と字幕に出る。これはギリシアふうの発音なのだろうか。音では「ヒュペイシア」。図書館の外では宗教対立が戦争レベルに達しているのに、彼女は地動説と、地球の周回軌道が楕円であることの証明に取り組み続ける。

理性と科学の象徴としての図書館と、これを無用とするひとびととの攻防戦の映画でもある。図書館支持派のわたしには、それだけでも共感度は高い。

当時のアレクサンドリアのオープンセットとCGがいい。ときどき視点が天文学的な高さに移るので、ちょうどグーグルアースの航空写真で当時の地球を眺めるような映像となる。クレジットを見ると、セットはマルタ島に作られたようだ。

歴史映画として、この作品が描くものは「古典古代の自由と明晰さの滅亡」の瞬間であり、キリスト教の伸張による「暗黒の中世」の起源である。キリスト教が人類を退歩させた、とはっきり言っているわけで、古代史もの映画としてはかなり過激なメッセージを持った作品だ。

広場(AGORA)では、キリスト教伝道者が、子供だましの「火渡りパフォーマンス」をおこなって、奴隷や貧しい人々の支持を集める。広場が、対話や議論の場から、熱狂やリンチの舞台へと変質していく様子も悲しい。

アレクサンドリア図書館襲撃のシーンでは、キリスト教徒が、書物を右手に掲げた神像を破壊し、喝采する。わたしはスペインでイエズス会創設者ロヨラの生地を訪ねたことがあるが、そこではロヨラが書物を踏みつけにしている像が崇められていた。理性と科学の否定。あの像を思い起こした。

「反知性主義」批判の映画、であり、ポピュリズムを熱く否定する作品。また、図書館映画、というジャンルでは、いずれスタンダードの一本として語られることになるだろう。

# by sasakijo | 2011-03-06 13:08 | 日記

表現形式の原点

図書館問題から思うこと。


すべて表現は、路上ライブが原点である。音楽であれ、小説であれ、演劇であれ。そしてそれら表現者を路上ライブに立たせるものは、直接的にはおカネではない。どうしてもこれを表現せずにはいられないという衝動である。

その衝動を持った人間だけが、原理としての「路上ライブ」の時代を受け入れることができる。その時代が終わっても、抑えきれない表現欲求のままに路上に立った自分が自分の創造的営為の原点であると、意識し続けることができる。

路上ライブでは食えない? そのとおりだ。しかし音楽でも演劇でも、屋根のある空間でパフォーミングできるようになっても、多くのひとたちはそれだけでは食べてゆけない。文芸の世界だけ、たとえば本を出したということで表現者の中で特権的な存在になれるわけではない。

表現への衝動とは本来、「身銭を切っても」「生活をあとまわしにしても」抑えようのないものだ。その点で少しでも優先度の高いものがほかにあるのであれば、路上ライブの時代のうちに、そちらを選び取るべきだ。

文芸でも、中上健次の時代までは「身銭を切って同人誌に参加する」発表形式が併存していた。そもそも新人賞からすぐ商品としての「本」の刊行というシステムが日本で整備されたのは、せいぜいこの三、四十年のことだろう。

しかし「本」というパッケージ商品での発表形式は、文芸の普遍的な属性ではない。地球上の多くの土地では、作家たちはまず朗読会で自作を発表する(本を作るより、発表コストはずっと低い)。

わたしは東欧の朗読会を直接知っている。また一度行ったことがあるが、80年代後半、アメリカ・ペンクラブの、ニューヨーク、イーストビレッジの本部でも、毎週のように朗読会が開かれていた。

映画『カポーティ』に描かれた高額入場料の朗読会を最高ランクとすれば、無名の新人たちはまず近所の喫茶店や図書館での「無料の」朗読会から始めていることだろう。

この場合、「うちの店でやってみないか。経費は持ってやるから」と言ってくれる喫茶店主が、いまの日本の出版社にあたる。彼は「評判がいいようだったら、定期的にうちで開いてくれよな」とも言ってくれることだろう(だから世界的にみても、日本の作家たちはきわめて恵まれた環境の中にいるのだ)。

文芸でもこのようにライブが発表形式の原点であるが、原理的には屋根のある会場での朗読会の前に、「路上ライブ」がある。すべての表現者は、カネにならなくてもその表現、その創造活動を続ける意志があるかどうか「路上ライブの時代」に問われる。

その時期に小説家は、読者を少しずつ自分のまわりに(自分の声が聞こえる範囲に。原稿コピーを手配りできる範囲のうちに)作ってゆくしかない。いきなりマスマーケットの読者ができるというのは、例外的なことなのだ。

自分の作品を知る者が少ないなら、多くの路上で、いくつもの喫茶店で、作品のさわりでも伝える努力をすべきだろう。そしてその負荷を考えるなら「無料で」自分の作品の読者を増やしてくれる公共図書館という制度は、けっして否定すべきものではない。

小説家(エンターテインメント系の小説家を想定している)は、芸能シンジケートからデビューするアイドル・タレントとはちがう。同じ芸能人でも、ゲリラ・ライブから始めるお笑い芸人に近いかもしれない。

もっと言えば、小説家は、講談師、辻講釈師、お噺衆の血を引く表現者である。JASRAC的ビジネス・モデルの中で生きようと考えるべきではない。

路上で一席聞いてもらったのに投げ銭がなかったら、文藝家協会に駆け込むのではなく、次はもっと面白く聞かせるよと胸に誓うだけだ。
# by sasakijo | 2011-01-28 17:15 | 日記