札幌の人気劇団TPSが、代表作の3つの演目を一カ月上演するという試み。このうち『冬のソナチネ』『西線11条のアリア』を観た。
http://www.h-paf.ne.jp/
『西線11条のアリア』は2005年初演の名作。札幌の路面電車の停車場を舞台にしたファンタジーだ。ネタばれでも十分面白いと思うので書くが、札幌の市電というきわめて日常的な乗り物が、じつは「銀河鉄道」だったという作品。
TPSを主宰するのは、東京のメディアでも俳優として活躍する斉藤歩。音楽にも強く、劇中の音楽もオリジナルを作曲してしまう。
役者さんたちも何かしらの楽器を演奏するひとが多く、それがTPSの舞台に豊かな音楽性を与えている。『冬のソナチネ』では、札幌交響楽団のメンバーだった土田英順さんがチェロを弾く。TPSのロングラン公演は3月27日まで。
http://www.h-paf.ne.jp/
『西線11条のアリア』は2005年初演の名作。札幌の路面電車の停車場を舞台にしたファンタジーだ。ネタばれでも十分面白いと思うので書くが、札幌の市電というきわめて日常的な乗り物が、じつは「銀河鉄道」だったという作品。
TPSを主宰するのは、東京のメディアでも俳優として活躍する斉藤歩。音楽にも強く、劇中の音楽もオリジナルを作曲してしまう。
役者さんたちも何かしらの楽器を演奏するひとが多く、それがTPSの舞台に豊かな音楽性を与えている。『冬のソナチネ』では、札幌交響楽団のメンバーだった土田英順さんがチェロを弾く。TPSのロングラン公演は3月27日まで。
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by sasakijo
| 2011-03-11 08:54
| 日記
映画『アレクサンドリア』を観た。原題は『AGORA』、監督アレハンドロ・アメナーバル。
http://www.youtube.com/watch?v=FOrmvCuBpKQ
舞台は4世紀のエジプトのアレクサンドリア。とくに、四世紀かけて再建されたアレクサンドリア図書館で物語の多くが進行する。
主人公は、当時アレクサンドリアに実在した女性天文学者、数学者。ヒュパティア、と字幕に出る。これはギリシアふうの発音なのだろうか。音では「ヒュペイシア」。図書館の外では宗教対立が戦争レベルに達しているのに、彼女は地動説と、地球の周回軌道が楕円であることの証明に取り組み続ける。
理性と科学の象徴としての図書館と、これを無用とするひとびととの攻防戦の映画でもある。図書館支持派のわたしには、それだけでも共感度は高い。
当時のアレクサンドリアのオープンセットとCGがいい。ときどき視点が天文学的な高さに移るので、ちょうどグーグルアースの航空写真で当時の地球を眺めるような映像となる。クレジットを見ると、セットはマルタ島に作られたようだ。
歴史映画として、この作品が描くものは「古典古代の自由と明晰さの滅亡」の瞬間であり、キリスト教の伸張による「暗黒の中世」の起源である。キリスト教が人類を退歩させた、とはっきり言っているわけで、古代史もの映画としてはかなり過激なメッセージを持った作品だ。
広場(AGORA)では、キリスト教伝道者が、子供だましの「火渡りパフォーマンス」をおこなって、奴隷や貧しい人々の支持を集める。広場が、対話や議論の場から、熱狂やリンチの舞台へと変質していく様子も悲しい。
アレクサンドリア図書館襲撃のシーンでは、キリスト教徒が、書物を右手に掲げた神像を破壊し、喝采する。わたしはスペインでイエズス会創設者ロヨラの生地を訪ねたことがあるが、そこではロヨラが書物を踏みつけにしている像が崇められていた。理性と科学の否定。あの像を思い起こした。
「反知性主義」批判の映画、であり、ポピュリズムを熱く否定する作品。また、図書館映画、というジャンルでは、いずれスタンダードの一本として語られることになるだろう。
http://www.youtube.com/watch?v=FOrmvCuBpKQ
舞台は4世紀のエジプトのアレクサンドリア。とくに、四世紀かけて再建されたアレクサンドリア図書館で物語の多くが進行する。
主人公は、当時アレクサンドリアに実在した女性天文学者、数学者。ヒュパティア、と字幕に出る。これはギリシアふうの発音なのだろうか。音では「ヒュペイシア」。図書館の外では宗教対立が戦争レベルに達しているのに、彼女は地動説と、地球の周回軌道が楕円であることの証明に取り組み続ける。
理性と科学の象徴としての図書館と、これを無用とするひとびととの攻防戦の映画でもある。図書館支持派のわたしには、それだけでも共感度は高い。
当時のアレクサンドリアのオープンセットとCGがいい。ときどき視点が天文学的な高さに移るので、ちょうどグーグルアースの航空写真で当時の地球を眺めるような映像となる。クレジットを見ると、セットはマルタ島に作られたようだ。
歴史映画として、この作品が描くものは「古典古代の自由と明晰さの滅亡」の瞬間であり、キリスト教の伸張による「暗黒の中世」の起源である。キリスト教が人類を退歩させた、とはっきり言っているわけで、古代史もの映画としてはかなり過激なメッセージを持った作品だ。
広場(AGORA)では、キリスト教伝道者が、子供だましの「火渡りパフォーマンス」をおこなって、奴隷や貧しい人々の支持を集める。広場が、対話や議論の場から、熱狂やリンチの舞台へと変質していく様子も悲しい。
アレクサンドリア図書館襲撃のシーンでは、キリスト教徒が、書物を右手に掲げた神像を破壊し、喝采する。わたしはスペインでイエズス会創設者ロヨラの生地を訪ねたことがあるが、そこではロヨラが書物を踏みつけにしている像が崇められていた。理性と科学の否定。あの像を思い起こした。
「反知性主義」批判の映画、であり、ポピュリズムを熱く否定する作品。また、図書館映画、というジャンルでは、いずれスタンダードの一本として語られることになるだろう。
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by sasakijo
| 2011-03-06 13:08
| 日記
図書館問題から思うこと。
すべて表現は、路上ライブが原点である。音楽であれ、小説であれ、演劇であれ。そしてそれら表現者を路上ライブに立たせるものは、直接的にはおカネではない。どうしてもこれを表現せずにはいられないという衝動である。
その衝動を持った人間だけが、原理としての「路上ライブ」の時代を受け入れることができる。その時代が終わっても、抑えきれない表現欲求のままに路上に立った自分が自分の創造的営為の原点であると、意識し続けることができる。
路上ライブでは食えない? そのとおりだ。しかし音楽でも演劇でも、屋根のある空間でパフォーミングできるようになっても、多くのひとたちはそれだけでは食べてゆけない。文芸の世界だけ、たとえば本を出したということで表現者の中で特権的な存在になれるわけではない。
表現への衝動とは本来、「身銭を切っても」「生活をあとまわしにしても」抑えようのないものだ。その点で少しでも優先度の高いものがほかにあるのであれば、路上ライブの時代のうちに、そちらを選び取るべきだ。
文芸でも、中上健次の時代までは「身銭を切って同人誌に参加する」発表形式が併存していた。そもそも新人賞からすぐ商品としての「本」の刊行というシステムが日本で整備されたのは、せいぜいこの三、四十年のことだろう。
しかし「本」というパッケージ商品での発表形式は、文芸の普遍的な属性ではない。地球上の多くの土地では、作家たちはまず朗読会で自作を発表する(本を作るより、発表コストはずっと低い)。
わたしは東欧の朗読会を直接知っている。また一度行ったことがあるが、80年代後半、アメリカ・ペンクラブの、ニューヨーク、イーストビレッジの本部でも、毎週のように朗読会が開かれていた。
映画『カポーティ』に描かれた高額入場料の朗読会を最高ランクとすれば、無名の新人たちはまず近所の喫茶店や図書館での「無料の」朗読会から始めていることだろう。
この場合、「うちの店でやってみないか。経費は持ってやるから」と言ってくれる喫茶店主が、いまの日本の出版社にあたる。彼は「評判がいいようだったら、定期的にうちで開いてくれよな」とも言ってくれることだろう(だから世界的にみても、日本の作家たちはきわめて恵まれた環境の中にいるのだ)。
文芸でもこのようにライブが発表形式の原点であるが、原理的には屋根のある会場での朗読会の前に、「路上ライブ」がある。すべての表現者は、カネにならなくてもその表現、その創造活動を続ける意志があるかどうか「路上ライブの時代」に問われる。
その時期に小説家は、読者を少しずつ自分のまわりに(自分の声が聞こえる範囲に。原稿コピーを手配りできる範囲のうちに)作ってゆくしかない。いきなりマスマーケットの読者ができるというのは、例外的なことなのだ。
自分の作品を知る者が少ないなら、多くの路上で、いくつもの喫茶店で、作品のさわりでも伝える努力をすべきだろう。そしてその負荷を考えるなら「無料で」自分の作品の読者を増やしてくれる公共図書館という制度は、けっして否定すべきものではない。
小説家(エンターテインメント系の小説家を想定している)は、芸能シンジケートからデビューするアイドル・タレントとはちがう。同じ芸能人でも、ゲリラ・ライブから始めるお笑い芸人に近いかもしれない。
もっと言えば、小説家は、講談師、辻講釈師、お噺衆の血を引く表現者である。JASRAC的ビジネス・モデルの中で生きようと考えるべきではない。
路上で一席聞いてもらったのに投げ銭がなかったら、文藝家協会に駆け込むのではなく、次はもっと面白く聞かせるよと胸に誓うだけだ。
すべて表現は、路上ライブが原点である。音楽であれ、小説であれ、演劇であれ。そしてそれら表現者を路上ライブに立たせるものは、直接的にはおカネではない。どうしてもこれを表現せずにはいられないという衝動である。
その衝動を持った人間だけが、原理としての「路上ライブ」の時代を受け入れることができる。その時代が終わっても、抑えきれない表現欲求のままに路上に立った自分が自分の創造的営為の原点であると、意識し続けることができる。
路上ライブでは食えない? そのとおりだ。しかし音楽でも演劇でも、屋根のある空間でパフォーミングできるようになっても、多くのひとたちはそれだけでは食べてゆけない。文芸の世界だけ、たとえば本を出したということで表現者の中で特権的な存在になれるわけではない。
表現への衝動とは本来、「身銭を切っても」「生活をあとまわしにしても」抑えようのないものだ。その点で少しでも優先度の高いものがほかにあるのであれば、路上ライブの時代のうちに、そちらを選び取るべきだ。
文芸でも、中上健次の時代までは「身銭を切って同人誌に参加する」発表形式が併存していた。そもそも新人賞からすぐ商品としての「本」の刊行というシステムが日本で整備されたのは、せいぜいこの三、四十年のことだろう。
しかし「本」というパッケージ商品での発表形式は、文芸の普遍的な属性ではない。地球上の多くの土地では、作家たちはまず朗読会で自作を発表する(本を作るより、発表コストはずっと低い)。
わたしは東欧の朗読会を直接知っている。また一度行ったことがあるが、80年代後半、アメリカ・ペンクラブの、ニューヨーク、イーストビレッジの本部でも、毎週のように朗読会が開かれていた。
映画『カポーティ』に描かれた高額入場料の朗読会を最高ランクとすれば、無名の新人たちはまず近所の喫茶店や図書館での「無料の」朗読会から始めていることだろう。
この場合、「うちの店でやってみないか。経費は持ってやるから」と言ってくれる喫茶店主が、いまの日本の出版社にあたる。彼は「評判がいいようだったら、定期的にうちで開いてくれよな」とも言ってくれることだろう(だから世界的にみても、日本の作家たちはきわめて恵まれた環境の中にいるのだ)。
文芸でもこのようにライブが発表形式の原点であるが、原理的には屋根のある会場での朗読会の前に、「路上ライブ」がある。すべての表現者は、カネにならなくてもその表現、その創造活動を続ける意志があるかどうか「路上ライブの時代」に問われる。
その時期に小説家は、読者を少しずつ自分のまわりに(自分の声が聞こえる範囲に。原稿コピーを手配りできる範囲のうちに)作ってゆくしかない。いきなりマスマーケットの読者ができるというのは、例外的なことなのだ。
自分の作品を知る者が少ないなら、多くの路上で、いくつもの喫茶店で、作品のさわりでも伝える努力をすべきだろう。そしてその負荷を考えるなら「無料で」自分の作品の読者を増やしてくれる公共図書館という制度は、けっして否定すべきものではない。
小説家(エンターテインメント系の小説家を想定している)は、芸能シンジケートからデビューするアイドル・タレントとはちがう。同じ芸能人でも、ゲリラ・ライブから始めるお笑い芸人に近いかもしれない。
もっと言えば、小説家は、講談師、辻講釈師、お噺衆の血を引く表現者である。JASRAC的ビジネス・モデルの中で生きようと考えるべきではない。
路上で一席聞いてもらったのに投げ銭がなかったら、文藝家協会に駆け込むのではなく、次はもっと面白く聞かせるよと胸に誓うだけだ。
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by sasakijo
| 2011-01-28 17:15
| 日記
Twitterにも書いたけれど、こっちにもまとめとして。
同業白石一文さんが、図書館で書き下ろしと銘打たれた本を借りないでくれ、と書いている。印税について数字を出したうえで、「皆さんが図書館を利用すると良心的な作家ほど行き詰まる」と。この問題については何度かブログにも書いてきたけれど、わたしは図書館を作家の敵とは思わない立場だ。
なにより、読書家としての自分が図書館で育ったという自覚がある。若いとき、貧しいが読書欲は旺盛だったころ、もし世の中に図書館がなかったら、その後わたしはこれほど本を「買う」大人になったろうか。むしろわたしは、自分の本を公立図書館のすべてが買ってくれたらと願う。
図書館は本一般の読者を育てるだけではなく、わたしの読者も育ててくれる。図書館で単行本を借りたひとがわたしの読者となってくれたら、そのひとはやがて購入者ともなってくれるはずである。作品を知る、作家を知る、その回路を狭めて、読者が増えることはありえない。
ある図書館でわたしの本が10人に借り出されたと聞けば、わたしは10冊分の印税がふいになったとは考えない。10人の読者ができたと考える。そしてそのうちのただのひとりにも、次は買おうと決意させることができなければ、それは作家としてのわたしの負けだ。
たしか内田樹教授も図書館について書いていたはずと思ったけれど、どの本に収録の論考だったろう。わたしは内田教授の図書館論に共感する。図書館という制度を、支持する。
同業白石一文さんが、図書館で書き下ろしと銘打たれた本を借りないでくれ、と書いている。印税について数字を出したうえで、「皆さんが図書館を利用すると良心的な作家ほど行き詰まる」と。この問題については何度かブログにも書いてきたけれど、わたしは図書館を作家の敵とは思わない立場だ。
なにより、読書家としての自分が図書館で育ったという自覚がある。若いとき、貧しいが読書欲は旺盛だったころ、もし世の中に図書館がなかったら、その後わたしはこれほど本を「買う」大人になったろうか。むしろわたしは、自分の本を公立図書館のすべてが買ってくれたらと願う。
図書館は本一般の読者を育てるだけではなく、わたしの読者も育ててくれる。図書館で単行本を借りたひとがわたしの読者となってくれたら、そのひとはやがて購入者ともなってくれるはずである。作品を知る、作家を知る、その回路を狭めて、読者が増えることはありえない。
ある図書館でわたしの本が10人に借り出されたと聞けば、わたしは10冊分の印税がふいになったとは考えない。10人の読者ができたと考える。そしてそのうちのただのひとりにも、次は買おうと決意させることができなければ、それは作家としてのわたしの負けだ。
たしか内田樹教授も図書館について書いていたはずと思ったけれど、どの本に収録の論考だったろう。わたしは内田教授の図書館論に共感する。図書館という制度を、支持する。
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by sasakijo
| 2011-01-24 16:07
| 日記
『カメラは詩的な遊びなのだ』(田中長徳、アスキー新書)
田中長徳氏はライカ・エバンジェリストとして知られるひとだ。ライカ熱のないわたしも、氏のライカ愛についての本は少し読んできた。信仰を持つには至らなかったが。
この新書の帯の写真には、ライカⅠの隣りに、オリンパスE-P2。氏は本書冒頭でこのオリンパスE-P2を絶賛しているし、中の写真もこのカメラで撮ったものだとある。E-Pシリーズ・ユーザーとして、この新書は読まずにはいられない。収められている写真はすべてヘルシンキで撮られたもの。
テキストは講演か写真教室での講義を起こしたものだろうか。いつもの長徳節なのだけど、アマチュアへの実用的な助言が少し。
たとえばひとつ。RAWモードは必要なし。JPEGで十分。B全判まで拡大プリントできる。
プロでもそうなんだ。
もうひとつ。写真はプリントするな。フォトフレームでスライドショーにして見るのがいい。
これはプロの作品についても同じだ。いまなら写真は、重い豪華版写真集や混雑する写真展会場で見るよりも、PCで見るほうがいい。
田中長徳氏はライカ・エバンジェリストとして知られるひとだ。ライカ熱のないわたしも、氏のライカ愛についての本は少し読んできた。信仰を持つには至らなかったが。
この新書の帯の写真には、ライカⅠの隣りに、オリンパスE-P2。氏は本書冒頭でこのオリンパスE-P2を絶賛しているし、中の写真もこのカメラで撮ったものだとある。E-Pシリーズ・ユーザーとして、この新書は読まずにはいられない。収められている写真はすべてヘルシンキで撮られたもの。
テキストは講演か写真教室での講義を起こしたものだろうか。いつもの長徳節なのだけど、アマチュアへの実用的な助言が少し。
たとえばひとつ。RAWモードは必要なし。JPEGで十分。B全判まで拡大プリントできる。
プロでもそうなんだ。
もうひとつ。写真はプリントするな。フォトフレームでスライドショーにして見るのがいい。
これはプロの作品についても同じだ。いまなら写真は、重い豪華版写真集や混雑する写真展会場で見るよりも、PCで見るほうがいい。
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by sasakijo
| 2011-01-17 20:34
| 本の話題